雪の降るバス停から始めた推し活
推しとは一体なんだろうか。
「先輩は私の推しなんです!」
職場の後輩である彼女は屈託なくそう言ってくる。
「そういうのって、アイドルとか芸能人に対してじゃないのか……?そもそも君は結婚もしてるし」
「いや"推し"はそういうの関係なく、"自分の推したい人"なんですよ」
まあ確かに、応援したい人や憧れの人ってのは"自分が勝手に好きになった人"という印象だから、関係ないのかもなとも思う。
自分が"推している人"はいるだろうか、と考えた時に、真っ先に浮かぶ人がいる。
のん(能年玲奈)さんだ。
彼女は僕と同い年で、1993年7月13日生まれ、兵庫県の出身である。
自分でもマジかよと思うけれど、かれこれ12年くらいは推している事になる。僕の人生には欠かせない人だ。
今から12年前の冬、僕は17歳のどこにでもいる高校2年生だった。
僕の住む新潟は、冬はずっしりと重い雪が降る。しんしんと高く積もる雪の中、僕は部活を終え、陸上部のウィンドブレーカーを着て、バスを待っていた。
都会のバスが何本走ってるかとかはよく分からないけれど、新潟の片田舎ともなればバスは1時間に1本ほどだ。しかも学校から1番近いバス停から帰るとなると、周辺には何も無いしやることもなく、とにかく待つしかない。
ウィンドブレーカーでは凌げないような寒さの中、自分の吐く息だけが白く、暖かかった。
待ってる間、とりあえずガラケーでネットニュースを眺めた。
そのネットニュースの中に、のんさんのインタビュー記事が紛れていた。これから女優としても活躍していきたい、というような内容だったはずだ。
その時の写真がこれだったことも覚えている。
僕と同い年の有名人なんて、神木隆之介さんや、志田未来さんみたいな子役を始め、渡辺麻友さんとか、アイドルもまあまあ出現していた。
今では、福士蒼汰さん、はじめしゃちょーさん、武井咲さん、フワちゃん、新川優愛さん、吉田正尚さん等、93年生まれが多岐にわたって活躍している。
しかしこの時、自分と同い年で「17歳で、これからデカい夢に挑戦するぞ!!」みたいな事を言う人を一度も見た事がなく、何だか凄くのんさんが輝いて見えた。まあ既にモデルとして活躍はしていたみたいだけど。
僕はというと本当にありふれた、ただただ普通に高校そして大学に進学するコースを歩んでいた。
僕とは全く違う分野に挑戦しようとしている、今日初めて知った同い年の彼女が、これからどんな風になっていくのか。
不思議な事だけれど、その将来に物凄く引き込まれた。
というか、そもそもその時ののんさんの輝きが尋常じゃなかった。散りばめられた星空の中で、何かめちゃくちゃ輝いてる一等星のようだった。
「この人は将来、僕の人生に多大な影響を与える人になるな」とすら思った。
そんな事を考えていたら、バスが到着する。
僕も、彼女も同じ17歳だ。これからどんな人生を歩んでいくのか誰にも分からない。2人とも素晴らしい何者かになれるかもしれない。
彼女を応援する事で、自分も前進していこう。
そんな事を思っていたら、乗り込んだバスの扉が閉まり、積もった雪を踏みしめながらもそもそと前進した。
1年後、僕は高校を卒業する事となった。頑張った甲斐あって、無事に大学に進学することになった。
買い換えたスマホの画面に映されたネットニュースには、知った顔があった。
のんさんがカルピスウォーターのCMキャラクターに選ばれたのだ。驚愕し、膝から崩れ落ちた。
正直、1年前に見たネットニュースでは、苗字の珍しい全く知らない女優志望の女の子ぐらいの感じだった。
しかし、誰もが知っているカルピスウォーターのCMキャラクターに選ばれた。並の努力じゃ到底無理だろう。
「彼女も頑張ってるんだな」
不思議と自分にも活力が湧いてきた。
その更に1年後、のんさんは朝の連続テレビ小説"あまちゃん"の主演に選ばれる事になる。
ここまで来るともう凄いとか言うレベルじゃない。何なら僕が大学に入って、ダラダラと表面張力の実験とかをしている時に、彼女は凄まじい成長を遂げていた。
オーディションを勝ち抜いて主役に選ばれるというのは、運も多少あるかもしれないが、何より彼女の努力の賜物だろう。
自分も頑張らなければ、とまた強く思えた。
あまちゃんは毎朝ちゃんと見た初めての朝ドラだったけど、衝撃的な作品だった、
正直自分の推しが主役をやっているだけでもう最高なのだけれど、田舎出身の自分から見ても不自然でないと思える田舎の解像度の高さ、内容の濃さ、ギャグの面白さ、もはやこの作品自体が自分のどストライクだった。
ほぼ毎朝のように元気を貰ったし、あまちゃんによってのんさん自身も一気に国民的な女優となった。
僕は、雪の降りしきるバス停で彼女を見つけた時の自分を思い出す。自分の吐く息だけが温かかったあの時から、僕はとんでもない人を応援し始めてしまった。
彼女の快進撃を見てそう思った。
そして僕は大学を卒業し、会社員となった。
自分は、まあ何と言うか、特に何者にもならなかった。全然普通のサラリーマンになった。
それにしてもやはり社会というのは厳しい。小学生から始まって16年間学生をやっていた自分も、社会に打ちのめされる事になった。
落胆する日々が増えた。
のんさんも当時、露出が極端に少なくなった。色んなニュースが飛び交っていたし、色々あったのだろう。
休みの日は何にもやる気が起きず、布団から起き上がれない。
そんな日々でも、時々雪の降るバス停を思い出す。
あの時僕は17歳で、自分はきっと素晴らしい何者かになると思っていた。
しかし現実はそうはいかなかった。
未来に様々な希望を抱きつつ前に進んでいたあの時の自分の影が、時間が経つにつれて凄く長く、遠くなっていた。
もうこんな時間か、でも起き上がれないな。
スマホに映るネットニュースにも、のんさんの名前を見ることは無くなっていた。
どういう巡り合わせなのか、それとも奇跡か、僕が就職した年の誕生日にのんさん主演の"この世界の片隅に。"が公開された。
2016年11月12日、僕の23歳の誕生日だ。
もちろん見に行った。新潟は公開されている映画館が少なく、少し遠くの映画館に行った。
そもそも、のんさんが何かを演じるという事がとても久しぶりの作品だった。
映画が始まると、すず役ののんさんの声が室内に響き渡る。
「おぉ……!のんさんだ……!!」
のんさんが演じている声を聞くのは久々で、何だかとてつもなく感動した。
しかし、それよりも凄いことがある。
映画が進むにつれ、最初は「のんさん」だと思っていた声が、途中から「すずさん」になっていた。
どういう事かと言うと、その役の声に当てはまり過ぎて、もはや"のんさんの声"じゃなく役である"すずさんの声"としてその声を認識していた。
僕らは太平洋戦争の時代に生まれていないけれど、まるでのんさんの演技はその時代を生きている人であるかのような、そんな迫力があった。
映画は大ヒットし、一年以上上映された映画館もあった。
僕は以前に見た"あまちゃん"の中でも、印象的なシーンがある。
記憶の中のシーンなので曖昧だが、あまちゃん内でトップ女優である鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が、アイドルであり女優志望の付き人である天野アキ(のん)に語りかけるシーンがあった。
「今、日本で天野アキをやらせたら、あんたの右に出る女優はいません。だから、続けなさい。向いてないけど続けるって言うのも才能よ。」
"天野アキ"とは、のんさんが演じた役だ。
これはドラマのシーンなので、天野アキ自身を演じられるのは天野アキという女優以外ない、ということになる。
このドラマはアドリブも多く、だからこれがアドリブであったかどうかは僕にも分からない。
でも何だか、天野アキを演じられるのはのんさん以外にいないな、とも思えるのだ。
すずさんの声がいつの間にかのんさんからすずさんになっていたように、彼女はいつも全力で役に憑依している、そんな印象がある。
「こんな輝いてる人、多分いつまでもほっとかれないよな」
と、僕は今でも信じて疑わない。
推しとは一体なんだろうか。
職場の後輩は「自分の推したい人」と言っていた。おすすめしたい人という事だ。
俳優でも、アイドルでも、2次元でも、インターネットの人でも、身近な人でも何でも良い。
その人を応援したり、好きでいたり、ライブに行ったり、配信を見たり、作品を見たり、実際に関わったり、何でも良い。
自分が素晴らしいと思う人の輝きを見て、「良かったねえ」と心から思うことで、その感動は自分の活力に変わっていく。
誰かを推す活動は、きっと自分のパワーになる。
12年前に雪の降るバス停で僕が推し始めた人は、今も映画、音楽、芸術、広告、YouTubeと、創作あーちすととしての活動に大忙しなご様子だ。
その動向をチェックする度、人前でへこたれず、悩みも全く言わず、頑張り続ける彼女に非常に勇気を貰っている。
僕も今、まあ仕事で必要だからだけど、とある免許を取るためにずっと頑張っている最中だ。
そんな頑張っている僕の姿を見て、ボンクラな僕のことも後輩は「推し」と言ってくれたのかな、と思う。
「推されたからには、僕も頑張らないとなあ」
ずっと見続けた輝きを追うようにして、僕だって今からでも何者かになってやろう。
足元から伸びた影が、前よりほんの少しだけ小さく近くに見えた気がした。
何とどんな偶然か、現在毎朝"あまちゃん"がBSで絶賛再放送中!
https://www.nhk.jp/g/blog/gc-134hcyfq1/
1週目の一挙放送は、今週の日曜(4/9)からあるのでまだ間に合うぞ!というか2週目からでもあらすじあるから全然間に合う!
ぜひとも見ておくれ〜〜〜!!
暦の上ではオクトーバー
これは僕が大学生の時の話になる。
稲刈りも終わり、そろそろ長袖を着ていないと肌寒いぞ、となってきた頃、僕らの長すぎた夏休みは終わりを迎え、大学では後期授業が始まった。
大学の学部棟のラウンジで角山君が「今日は当たる気がする」と言って自販機でコーヒーを購入したら本当に当たりが出て、でも僕はもう買ってしまっていた為、同じコーヒーを2本机に置いていた。買い間違えたようにしか見えない。
何の授業を取ろうか角山君と考えていると、同じ学部の同期、真田君が現れた。真田君は県外から来ている人で、こう言っちゃなんだけど見た目は完全にチー牛のそれだった。
チー牛
まあ見た目のことはどうでも良い。真田君は結構感覚が独特で面白い男だった。
授業をただサボっただけなのに、「仏滅だから調子が悪くて」とか言ったりした。
彼女が欲しすぎた為街コンに行ったが、誰とも話さずに帰ってきた。
かまぼこが大好きだが、かまぼこが何でできているのか知らないまま食べており、餅の一種だと思い込んでいた。
等、ほかにも色々と癖のある男だった。
僕と、僕がよく一緒にいた角山君とも普通に仲が良く、一緒にモンハンばかりする仲だ。
真田君「何でコーヒー2つあんの?」
角山君「何か当たるかも、と思いながら押したら当たった」
真田君「まじかよ……仏滅なのに。」
正直、真田君のその反応もおかしいと思う。関係ないだろ。
僕「ところで夏休みはどうだったよ。」
てっきり「何もねぇわ」と言われると思っていた僕らは、彼の「それがさぁ……」にすらちょっと驚いてしまった。
角山君「何かあったのか!?」
真田君「バイト始めたんだよね、夏休み中に。」
話を要約する。
真田君は夏休みがあまりにも暇すぎて、バイトでも始めようかと思ったらしい。接客などした事がなかったけど、逆に良いと思って、居酒屋のバイトに申し込んだ。
1度面接しただけで即合格し、ブラックだったら嫌だな〜とか思っていたが、初日に来てみると何と女の子の同期がいた。僕らとは違う大学の子であるらしかった。そして同い年だった。
その子と行動する事も多く、話し相手もいなかった為必然的によく話すようになった。すると彼女もどうやらモンハンばかりしている子のようで、夏休み中暇になったからと、全く同じ理由でバイトを始めた子であったようだ。
そして、バイト外でもオンラインでモンハンしたりして、夏休み中にどんどん仲が深まってきたそうである。
僕「さすがに嘘だろ、いつでも引き返していいぜ」
角山君「そんな夢みたいな話はあるはずが無い、というか最近見た夢の話してるんだろ」
真田君のいつもの調子からして、正直真田君の妄想をずっと語られているのかと思った。
真田君「本当だから!しかも、しかもだ、今度デートすることになった……!」
僕「何っ……!?」
角山君「デート……!?」
真田君「2人で出かけることになったんだけど、どうしたらいいかわからないんだよ……!!」
街コンに行った事もある男が言うセリフでも無いような気がするんだけど、いざデートとなると、自分の領域外になってしまうようだった。
何なら、向こうから「水族館行きたいよね〜。行かない?」と提案してきたらしい。僕、地元に住んでるのに地元の水族館とか行ったことないんだけど。いや……一緒に行く人がいなくて……。
ちなみに(当時の)大原櫻子さんに似てるらしかった。ここからは櫻子さんと呼ぶ。
大原櫻子さん
こうして僕らは後期の授業の計画などは後回しにし、一応イケメンでオシャレの筆頭である角山君を頼りに服を買いに行った。ユニクロだったけど、角山君にセンスがあり過ぎてかなり良い感じに仕上がった。というか普通にユニクロは良い。
角山君「成功するといいな、頑張れよ。」
僕「羨ましい男だ、報告待ってるぞ。」
真田君「でもデートの日仏滅なんだよな……。」
関係ないだろ。
まあ真田君は良い奴だし、話すと面白いし、きっと大丈夫だろう。成功するといいな、本当に心からそう思った。
結局櫻子さんとのデートは成功したとの事で、後日報告を受けた。
本当に楽しかったという。真田君のことをどう見てるかは分からないが、櫻子さんは真田君の話に沢山笑ってくれたとの事だ。デートの成功の報告が、僕らも何だか嬉しかった。
ここからしばらく進展らしい進展もなく、と思いきやデートは何回かしてたみたいで、でも普通に友達感覚で出かけているような感じらしかった。
僕「何かこう……恋人としてとか、そういう感じは向こうに無いの?」
真田君「正直、あんま感じられないんだよな……本当に友達って感じだ。遊ぶけど、進展もなく平行線が続いてるよ。」
正直、この2人付き合わねーかなとか僕と角山君は内心思っていたんだけど、押し付けるのもなぁとも思って、言わないでいた。
雪は降っていないが、芯から冷えるこの感じは、もはや冬と言っていいだろう。もう12月だ。
いつものように大学のラウンジで角山君とモンハンをしていると、真田君が現れた。
真田君はどう見ても元気が無い様子だった。ていうか、普通に体調が悪いのかなと思った。
角山君「体調悪いのか?休んだ方が良いぞ。」
真田君「いや……実はちょっと色々あって……。」
真田君曰く、櫻子さんと仲違いしたとの事だった。
詳しく話を聞くと、ここにきて「好きな人いるの?」と聞かれ、「いるぜ(君の事だけどな)」と返したところ、「私も気になる人が出来たんだ」と言われたらしい。
真田君はともかく、櫻子さんの「気になる人が出来た」って、誰の事なのだろう。
真田君の「いるぜ」は思いっきり櫻子さんの事だったが、櫻子さん側もそうであるとは限らない。彼らは既に昔から仲の良い友達みたいだった。
互いに好きな人がいる事を打ち明けただけで、それは仲が良い友達だからこそなのか、それとも互いに互いの事を……。
そんな煮え切らない気持ちを抱えたまま、真田君の家に櫻子さんが来た時に、全く拒まれず、そのままキスをしてしまったらしい。
僕「えらい展開やないの。」
角山君「結局、互いに心は通じていたのか。」
真田君「正直……俺もそう思っていたんだ。それが……。」
長いキスが終わって、目の前に櫻子さんがいる。とてつもなく幸せだった、かのように思えた。
櫻子さんは泣いていた。
驚いて真田君が「大丈夫?」とか「どうした?」と右往左往していると、櫻子さんが泣きつつも話し出した。
櫻子さん「私たちって友達だよね、でもこんなの友達じゃないよね。真田君、好きな人がいるって言ってたのに、こんな事をしてていいの……?」
帰り支度をした櫻子さんは、その後、「じゃあね」の言葉を最後に、振り返らず帰っていってしまった。
真田君は外まで見送ることも出来ず、重く閉まった玄関の扉の前で力なく途方に暮れた。
真田君「それが……3日前、4日前?の話だ……。」
僕「まじかよ。」
角山君「それっきり、何のやり取りもしていないのか?」
真田君「それっきりだ……連絡もしてない。」
僕らの中に沈黙が流れる。客観的に見るとだけど、正直互いに好きだったんだと思う。でも互いに不器用で、綺麗にその矢印がすれ違ってしまっていた。
真田君「正直、俺が甘えた……てっきり通じてると思った。俺の『好きな人いるよ』は……君の事なんだって……だから……。」
今ってもう外で大雪が降ってたんだっけ?というくらい、ヒヤリとした空気が流れる。
ラウンジの自動販売機のごぉーーーという音が聞こえるほど、重く、えもいえぬ静けさだけが僕たちを包む。
その空気を打ち破ったのは角山君だ。
角山君「まあ……しょうがないんじゃないか?互いに友達であると強調しながら、今まで一緒にいたのが良くなかったな。」
僕「僕も……角山君の言う通りだと思う。またきっと新しいチャンスは訪れるよ。連絡も取らなかったのならどうしようもないし……。」
既に僕と角山君は諦めムードだ。言うべきか迷ったけど、櫻子さんの純粋な気持ちを振り回した真田君に非があり、自業自得であったように見えたのも大きい。ショックな状況の後だし、とても言えなかったけど。
しばらくの沈黙の後、真田君が消え入りそうなか細い声を出す。
真田君「……一応連絡してみたんだけど……俺がこれからやり直せる道はもう……ないのかな。」
暗い顔をする真田君に、僕と角山君は何か声をかけたかったが、かける言葉を見つけられないでいた。
授業を終えて、次の授業まで暇だから角山君の家でドンキーコング64のコングバトルでもしようかと話しながら大学を後にする。
僕「真田君も来る?」
負のオーラを纏っている真田君にあれから初めて声をかけた。
真田君「……あぁ、悪い。」
心ここに在らず、と言った様子の真田君が、スマホを見て目を見開いた。
真田君「返事が来た!」
僕も角山君も振り返って思わず硬直した。
真田君「……『今日これからなら会えるけど、明日から実家に用事があって帰るんだ』って……でも俺、今日バイトあるんだよなぁ……。」
僕「行けよ。」
人の恋路に口出しなんてしたくない。だけど思わず僕の口からこの言葉が出てしまった。
僕「行けよ。バイトも休めばいいじゃん。授業も出席したことにしとくから。さっき『またチャンスは訪れる』って話したけど、こんなチャンスなかなか無いよ。」
角山君「俺も今日は行くべきだと思う」
角山君は、何か検索していたらしいスマホの画面を真田君に見せつける。
角山君「今日は大安だぜ」
行ってくるよ、と言って振り返らずに走って行く真田君の背中を、僕と角山君は見向きもせず、見送った。
結局、真田君は櫻子さんに会って、無事に想いを伝えられた。そして、めでたく付き合うことになった。
真田君は会って開口一番、いきなり「俺が好きなのは櫻子さんなんだ!!!」と叫んだらしい。路上で。天下の往来で愛を叫ぶ男。
櫻子さんは「私も……私も好きです…!!」と、泣きながら真田君に想いを伝え、2人は抱き合った。何なんだそれは。青春過ぎる。
バイトを休んだ理由も、家族が亡くなった事にしたのに既にバレており、「2人が付き合えたんなら!」「本当に良かったねぇ」とか周りにニヤニヤされっぱなしだったようだ。
真田君「とにかく、お前らが背中を押してくれたおかげだと思う。ありがとうな、ほんとに。」
僕「興味ないな。」
角山君「ああ、俺たちは今ドンキーコング64にハマっているんだ。興味あるわけが無い。」
そう言いながらも僕と角山君は内心「クソが〜〜〜〜〜!でも良かったね」と思っていた。今回の真田君と櫻子さんのトラブルに対して、全く説得力が無いレベルで本当の気持ちを伝えられてない。
けれど、真田君にはその想いも汲まれていたようだ。幸せそうに微笑んでいる。
角山君「ふん…嬉しそうな顔しやがって、ほんとにむかつく野郎だ。」
角山君は思わず、悟空が魔人ブウを倒した時のベジータの台詞を吐いていた。
自分の知ってる人でも知らない人でも、他人の恋路に興味は無いって人も多くいて、もちろんその考え方は尊重されるべきで、否定すべきものではない。
僕もそのスタンスを取るつもりでいた。他人の恋路なんかに口出しして、嫌な方向に転がったら当然バツが悪い。
それでも、その責任の一端を僕が背負ってもいいくらいに、あの時の僕は真田君の背中を押したかった。
真田君はあの時落ち込んでいて、自暴自棄にすらなりかけていた。だけど、彼らが仲睦まじく楽しそうに遊んでいて、それを真田君が嬉しそうに話していた時の事を思い出すと、言葉をかけられずにはいられなかった。もしかしたら届くかもしれないチャンスを、諦めて欲しくなかった。
成功しても、失敗しても、僕は真田君とは友達なのだから。
それからの真田君は、冒頭で「チー牛」なんて例えたのが嘘みたいに、見た目も痩せてどんどんカッコよくなっていった。人と付き合ったりすると、というか好きな人が出来ると、人ってこんなにも変われるんだね……と驚いた。
彼らはもはや付き合ってから7年とかそこらになる。小学生が入学して卒業してしまうぐらいだ。
僕も年1、2くらいで2人ともと会っているけど、いつまでも仲が良いなぁと思う。運命の出会いだったのだろう。ほんとにむかつく野郎だ。
正直いつ結婚するんだろうと思うのだけれど、別に彼らの背中を押す必要なんて無いかなと思う。
真田君は僕のTwitterの笹垢も知っているので、この文章を読んでいるとするなら、一応伝わって欲しいなと思う事がある。
真田君の誕生日は11月7日だ。僕と誕生日が近かったのでよく覚えている。
今年の11月7日は、大安だぜ。
フルマラソン走った時の話
稲穂もずいぶんと頭を垂れて、秋の香りが漂う夕方に、僕は仕事を終えて駅のホームで電車を待っていた。
有人駅ではあるけれど新潟の田舎にあるこの駅は、昼間にはホームにあまり人が見当たらないが、朝か、今みたいに夕方になると、通学する多くの学生で賑わい始める。
「まだまだ暑いね〜……」
職場の先輩がため息をつきながらアイスをちろちろと食べていた。この人が「てかアイス食べた〜い」とか言ったせいで、僕は自分の乗る電車に乗り遅れてしまった。先輩の乗る別方向の列車はもう間もなく来るので、完全に僕だけが損をした形になる。
まあ……先輩は綺麗な人なので、横顔を眺めながら話をするだけでも最早嬉しいんだけども、と少し思ってしまっている。
「こんなに暑いのに、僕明日フルマラソンなんですよ」
「えっ!!?もう明日なんだ!大変だね」
先輩は完全に他人事だった。その後に一応「頑張って〜」とか言ってくれた。
夕日の光をあちらこちらに跳ね返しながら、先輩の乗る列車がホームに到着しようとしている。
「あ、もう来ちゃった……。これいる?」
そう言って先輩は食べかけのアイスを僕に差し出して来る。
まじかよ。
え、そんなのって……いやでも何も考えてないのか……?これは一体……どういう……!とか色々迷いながらも、首はコクンと縦に動いてしまった。
そうすると先輩はもがー!とアイスを勢いよく食べ切り、残ったアイスの袋と棒をパシっ!と僕に押し付けて、開いたドアに向かって走り出した。
あっ!と思ったが僕は先輩の乗る電車とは別方向なので、思わず立ち尽くしてしまう。
振り返った先輩はアイスを勢いよく食べすぎて「頭いて〜」みたいな表情で口元を抑えつつ、ドアの閉まり際、ゴミを持ったまま呆然と立ち尽くす僕にひらひらと手を振った。
先輩には敵わないな……なんて思いながら、手を挙げて先輩の乗る電車を見送る。
引き続き僕が乗る方向の電車を、赤とんぼが飛び始めた駅で、ベンチに座りながら待つことにする。アイスの棒と袋は普通に捨てた。
翌日、空が白んで来た早朝に会場へ向かう。
よく寝たし、体調もバッチリだ。あんまり練習は出来なかったけど、とりあえず完走は絶対するぞ!そんな心意気だ。
実はと言うと僕はもうフルマラソンは2回目で、1度走った事がある。しんどすぎてもういいかなと思っていたが、大学の友達に誘われてもう一度出る事になってしまった。
その大学の友達と、もう1人出ると言っていた高校の友達と待ち合わせる。2人は初対面だけど、互いに「別に良いよ」と言っていたので、3人で開始前は一緒にいることになった。
待ち合わせ場所に向かうと、まずは高校の友達に会う。
上田君「元気だったか〜!?」
元気だったか?と聞きながらめちゃくちゃ元気だ。高校の時、僕には違う人格が宿っており、僕自身もやけに明るかったし、高校時代の友達には上田君みたいな陽キャな人が多くなった。
うい〜とか言いながら周囲を見ると、近くに大学の友達もいた。
角山君「う〜す」
クールな奴だ。めちゃくちゃサッカー部みたいなかっこいい見た目なのに、中身はかなりの陰キャというアンバランスさが面白すぎる男。64のゲームがあまりにも強く、こいつを倒す為にドンキーコング64のコングバトルの一戦に1時間を費やすという事態が発生してしまったぐらいだ。
というか、社会人になってから暫く会わないうちに、何か体格がおかしくなってるような……?
角山君「雨の日とかスポーツセンターのランニングマシン使ってたんだけど、懸垂にハマりすぎて上半身がバキバキになった」
角山君は何か、どう形容しようとしても逆三角形どころか、漏斗みたいな見た目になっている。これで走ったら間違いなく膝を壊すだろう。
漏斗
その様子を見て上田君は爆笑していた。
こうして、陰と陽を織り交ぜた陰陽太極チームはフルマラソンに挑戦することになったのだった。
新潟のビッグスワンスタジアムをスタート地点として開催される、新潟シティマラソン。例年ビッグスワンスタジアムをスタートし、新潟の至る所を回って、ビッグスワンスタジアムに帰ってきてゴールするルートだ。
今年は僕が1回目に走った時とは違うルートらしかった。トンネルを通る必要がある。大人数でトンネルなんか通って大丈夫なんだろうか……?とりあえずやってみなくちゃ分からない。
僕ら3人は待ち合わせさえしたものの、互いのペースは恐らく全然違うし、集中出来なくなるかもということで最初から別々の位置からスタートする事にした。僕は自信が無かったので、最後部からスタートする事にした。
スタート前という事で、日本文理高校ダンス部のパフォーマンスや、Qちゃんこと高橋尚子さんの挨拶が行われた。高橋尚子さんって有名人なのに、陸上やってると見る機会がまあまああるので、何だかそんなにレア感が無い。いやレアなんだけど。
頑張るか〜なんて思いながら足を伸ばしていると、隣にいたショートヘアの女性が両手でパチッと頬を叩いていた。顔色が悪そうで、華奢な、これから42.195km本当に走れるかい……?という印象だ。
「頑張るぞ、頑張るぞ……」
口元でそう唱えていた。気合いは充分らしい。
とはいえ見た目で判断しては行けない。長距離を走るのであれば体重は軽い方が有利だ。世界陸上や、マラソンや、駅伝なんかをみても、短距離の選手と比べて長距離の選手は細いイメージがあると思う。あれは合理的にそうなっているのだ。
顔色が悪いのは心配だが、結構やる人なのかもしれない。少なくとも漏斗みたいになっていた角山君よりは走るのに向いてそうだった。
「それでは準備はいいですか!?よーい……スタート!!」
ゲストで来ていた新潟の地元アイドルであるNegiccoが発したのか、高橋尚子さんが発したのかもよく確認できんまま、フルマラソンがスタートした。
〜10km地点
以前のフルマラソンの経験から、そんなにスピードをあげず、いつものジョギングのペースで無理せず足を進めていた。
スタートしてからこれでもか!というくらい、新潟感のある太鼓やら祭囃子やらが連続で展開されていた。応援ということで悪い気はしないけれど、ただジョギングしててまだ疲れてもないのにこんなに応援されるのも何かむず痒い感じがする。イベントというか、お祭り感を味わうという点では凄くいいな、と感じた。
シティマラソンとなると一応イベントという事になるので、コスプレをしている人も沢山いたし、沿道にもずっと応援する人が立って、知り合いに声をかけたりしていた。
僕の知り合いは特に来ていないので、そういうのいいね、なんて思った。
魔法使いみたいな帽子を被っていたり、プロペラがついた帽子を被ったり、そういう分かりやすい目印がある人は知らない人にまで応援されていた。そういうのもあるのか。
自分は何の遊び心も無い格好だったので、ちょっぴり悔しかった。
〜20km地点
意外と快活だな、なんて思った。良いペースという事だろうか。
以前はこの辺りでまだ半分も行ってないの〜!?と絶望した覚えがあるのだけれど、そうでもなかった。
しかし、ここでついに懸念していたルートに入る事になる。
そう、トンネルだ。
トンネルに入って、折り返し地点を折り返して、またトンネルに入るというルート。道も狭いし、今の時代じゃ考えられないくらいに人が過密する地点になる。
結果から言うと、トンネルは激ヤバだった。
中に篭もる人の熱気、湿気、そして屋根のあるトンネル内に人が過密したことによる空気の薄さ、その全てが良くなかった。
正直キツイな……なんて思っていると、目の前にアイアンマンが現れた。
どういう事?と思われるかもしれないが、紛れもなく、エンドゲームしていたアイアンマンだ。
さっきコスプレしてる人もいるって話をしたけど、せいぜいカエルとかポッチャマみたいなキャラクターで、全身着れるスウェットみたいなやつを着る程度なのに、本当にアイアンマンのコスチュームを着用している人が現れたのでかなり驚いた。
僕が折り返して来た道(反対側)を走っていたアイアンマンからは、カポ…カポ…みたいな、風呂桶みたいな音がした。
流石にプラスチックだよな、とは思ったけど、アイアンマンは見てわかるくらい前傾しており、完全にゼェゼェだった。
あのスーツ、最後まで脱がないつもりなのかな……と思いながらも、その横を通り過ぎた。
〜30km
ここまで来るとさすがに、どんなにペースを調整してたとしてもしんどくなってくる。
フルマラソンをしていると給水所みたいなのが数kmに一度はあって、スポドリや水の他、バナナやトマトも置いている。
ぽっぽ焼き
黒糖蒸しパンみたいなやつだ。僕はせっかくだからとこれを毎回給水所で食べていたんだけど、これが失敗だった。
普通に腹が重くなってきたのである。何本ぽっぽ焼きを食べたかは分からないけれど、毎回食べていたので多分10本いかないくらいは食べている。これはまあまあハードだった。
ただ周りの人も完全に疲れ切っていて、そもそもそういうもんなのかもな、と思いつつ、ペースを乱すことなく歩を進めた。
30km地点が見えてくる。ラストスパートだ!なんて初見では思ってしまうが、前回の経験から「思わない方が良い」と知っているので、こっからだぞ!と自分を奮い立たせた。
途中高橋尚子さんがいたのでハイタッチした。ハイタッチしたけど高橋尚子さんだと分かったのは通り過ぎてからだったので、惜しい事をしたなと思う。まあレア感は無いからいいか。いやレアなんだけど。
〜35km地点
さっき30km地点で、ラストスパートだ!と思わないようにしたのには理由がある。
32.195km地点。
ここで見る看板が、「あと10km!」なのである。
10km、それは走るとしたらまあまあキツイ距離である。普段でも10km走ったら「まあまあ走ったな」とかなり満足感が得られるような距離だ。
それを、ほとんど限界を迎えている時に見てしまう事になるのである。前回はここで「あと……10km……!?」と絶望してしまった。
体感的には、30km地点で「あと10km」なんだけれど、そこから2.195km走ってから見る「あと10km」は、結構来るものがある。経験してみないと分からないかもしれないが、本当に、かなり来るものがあるのだ。
僕はこれをスルーは出来たものの、身体はかなり限界を迎えていた。
足が重くて、膝が上に上がらず、うまく前に出すことが出来ない。
こんな状態じゃペースは上げられないな、ぐらいに思っていた、その時だった。
バチンっ
そんな音が聞こえた気がして、気がつくと僕は転んでいた。
足に激痛が走る。感覚で攣ったと分かった。ふくらはぎがものすごい勢いで張っていた。
とりあえず道の真ん中にいたら邪魔なので、沿道に避けようとする。
もう片方の足で身体を押そうとした時。
バチンっ
何と、もう片方の足も攣ってしまった。
激痛に喘ぎ、沿道で転がりながら両方の足の筋肉を伸ばす。
呻きながら沿道に転がっていると、声をかけられた。
「大丈夫ですか?救急車とか呼びましょうか?」
40代くらいの、恐らく応援に来られた女性に声をかけられる。
いえ、足を攣っただけなので大丈夫です……と返事をしながらも、ここから10km近く走るのか、という絶望感。早くしないと足切りタイムに間に合わない(別にまだ余裕だったが)、という焦り。足切りとなると強制的に競技を終了させられることになる。
早く走り出さないと、という強い思いと、強い思いに反して動かせない足。
ここでもう終わりか……と、僕は通り過ぎていくジバニャンのスウェットを着たランナーを眺めつつ、曇り空の下で途方に暮れてしまっていた。
〜42.195km
何故かは分からないが、僕は全力で走っていた。
両足を攣ったなんて正直とんでもない事だ。どう考えたってもっと休んだ方が良い。
両足を攣った状態からよろよろと立ち上がった後、最初はとりあえず1歩ずつと、足をとにかく前に進めることにした。
それが気がついたら全力で走っていた。もう足の痛みとか、疲れとか、呼吸の乱れとかの全ての感覚が吹っ飛んでしまった。完全にランナーズハイになっていた。
もうすぐ終わってしまう……!そう思いながら、疲れ切ってふらふらになっている他のランナーの背中を、自分でもびっくりするくらいのスピードで次々追い抜いていく。
途中、さっき足を攣った時に追い抜いて行ったジバニャンすらも追い抜いてしまった。
ジバニャンを追い抜くと「おお!!頑張れよ〜」とか言ってくれた。とても後ろを向く余裕は無かったので、片手を挙げて応えた。
沿道にはものすごい数の応援の人がいた。知り合いを応援する為か、ただの通行人かはわからない。でも何だかその応援が自分に向いているような気すらしてしまった。
というか、周りと比べて自分が尋常じゃないスピードで走っていたので、頑張ってる感がより目立ったのだろう。気の所為じゃなく、明らかに応援が自分に向いていた。
「おおー!!すごい!」「がんばってー!!」と、色んな人達が応援してくれた。まるで自分が主人公になったかのような気分になれる。
僕は足を前に投げ出すように走りながら、走馬灯のように色々な事を思い出していた。
高校の時、陸上部で部活中に怪我をしてしまい、実質選手生命が絶たれた事。
落ち込んでいた僕を、同じクラスだった上田君が励ましてくれて、放課後遊んでくれた事。
大学の時、流石に運動部には入れないけど、ジョギングだけは続けようとした事。
「俺も一緒にやるぞ」と、大学の同期の角山君が一緒に走ったりしてくれた事。
結果、今までやってきた種目と全然違うのに、1度目のフルマラソンも完走する事が出来た事。
会社に入って、「特技……フルマラソンなら走った事ありますよ」と言いつつも、何か自分って得意な事が無いなと自信を失った事。
そんな僕を「フルマラソン!?凄いじゃんそれ!」と、一緒に電車を待っていた職場の先輩が褒めてくれた事。
色んな人との思い出の一つひとつが、「大丈夫」「乗り越えられる」と背中を押してくれる。
この時、自分の事を主人公だと思い込んでいた僕は、他にも色々な人や出来事を今の自分の走りに結びつけて、力に変えていた。
こんなに全力で走っているのに、息も乱れないし、足も痛くない。逆に危険な状態なんだろうけど、今止まってしまうともう動く事ができなくなる気がした。
途中、走りながら涙が流れていた事に気づく。別に悲しくも何ともないのだが、何の涙なんだろうか。走れ!進め!と自分を鼓舞し続けていたので、考える暇は無かった。
ビッグスワンスタジアムに入ると、ゴールが見えてきた。トラックを半周してゴールゲートをくぐるような形だ。
トラックの内側では、日本文理高校のダンス部の皆さんがポンポンを持ちながらランナーに手を振ってくれていた。朝からずっと働いててちょっと可哀想に思えてくる。
元々短距離側の種目だった僕にとって、トラックの半周、つまり200mは自分の距離だ。今の自分なら30秒くらいで走れると分析できる。
約4時間、その間だけでも色々な事があったけど、それもあと30秒で終わってしまう。
ペースを上げて、最後は本当の全力で走る。日本文理高校のダンス部の皆さんが気づいて「え!?」みたいなリアクションをした後、「がんばってくださーい!」と完全に僕を応援してくれていた。これは完全に僕だった。
手を挙げて応えながらも、そこから両腕を大きく振って短距離走りでトラックを走り抜ける。ゴールがぐんぐん近づいていく。足を攣っていた時の事を考えると、まるで夢みたいだ。
そして、ゴールした。
終わっ……た……────
一気に身体の力が抜けるとか、そういうことも無く、凄く冷静に、徐々にスピードを落としていく。
シティマラソンのバスタオルを広げたスタッフのお姉さんが、抱きしめるように僕を包んでくれて、そのまま僕は力なくへたり込んだ。
終わった、長かった、終わった、長かった。
そんな言葉をずっと反芻させながら、僕はぼんやりと達成感を味わうことに夢中になった。
早朝からスタートしたのに日はもう頭の上まで登っている。そのぐらい長く走ったのだ。
タイムを見てみたら5時間を過ぎていたので、自分的には全然大したことは無かった。まあ両足も攣ったし仕方ない。
待機所に行ってみると、既に上田君と角山君はゴールしており、何だかずっと昔からの仲良しだったかのように会話していた。今日会ったばかりだろ。
どうやら地元が近かったようで、そのトークで盛り上がっていたみたいだった。
上田君「ようやく来たかー!」
僕「大変だったよ……両足攣ったりして。」
疲れがどっと来た僕はまたも地面にへたり込む。
角山君「何でお前が足攣ってんだよ、足を攣るなら俺だろ。」
そう言う角山君の体躯はどう見ても漏斗だった。ホントだよ。
2回目のフルマラソンだったけれど、フルマラソンってやっぱりなかなか出来ない経験をさせてくれるものだと思った。
スタート前、ショートヘアの顔色の悪い女性が自分の頬を叩いて気合いを入れていた。
魔法使いみたいな帽子や、プロペラがついた帽子を被った人が応援されていた。
トンネルにいたアイアンマンは、ゼェゼェだった。
両足を攣った僕を助けてくれようとした人がいた。
追い抜いた僕の背中に、ジバニャンが応援の声をかけてくれた。
沿道の人達が、僕に向けて応援の声をかけてくれた。
走っている最中に出会った人達は、全員が今日初めて会って、きっとこれからも会うことの無い人達だろう。それなのにこんなに印象に残っている。
全く知らない人に、心配されたり、応援されたり、そして互いを励ましあったり、日常を過ごしていてそんな場面ってあるだろうか。なかなか無い事だと思う。
最後、ラストスパートを応援されながら走っていた時、気づかないうちに涙が流れていた。
今までだったら自信の無い僕のただの悔し涙であったそれは、今回はきっと"ありがとう"の涙だった。そんな風に思う。
42.195kmを走るだけなのに、その間に非日常の中へとどっぷりと浸かることができる。凄く貴重で、達成感のある事だ。
10km走れれば、正直42.195kmも走ることは出来てしまう。皆もこの非日常に飛び込んでみてはどうだろうか。ヒトの力、無限大。
へたりこんでボーッとしている僕に、友人達が声をかけてくる。
上田君「そろそろ行くぞ〜!」
僕「え、もう?何しに行くん」
角山君「餅焼いて配ってるんだよ。無料だぞ。俺らはもう食べたけどもう1回初めてのフリして並んでくる」
僕「最低だなお前ら」
こうして僕らは更に3回初めてのフリして焼き餅を頂き、バレて普通に怒られた。
輝きだして走ってく / サンボマスター
冷やし中華はじめました
これは高校生の時の話になる。
入道雲も熱線で貫くような、強い日差しの降る真夏の日だった。
高校一年生になった僕と、同級生だった中学の友人達で、夏休みの間に久々に集まって何かやろう、と企画していた。
ズバリ、「1人ずつ具を持って来て、冷やし中華を完成させよう!」というものだ。
小中学校とも同じ、幼い頃から長い時間を過ごしてきた僕たちの"絆ーKIZUNAー"・・・それがどれ程のものなのか、今一度証明する必要があった。
という謎の建前で、本当は高校に入って新しい環境に身を置いた僕ら全員が、今までと違う雰囲気に馴染めず、不安に思っていたのが大きな理由かもしれない。
当時はLINEも無くガラケーだった僕らは、一斉送信に全員の宛先を入れてグループLINEのように連絡を取り合い、ルールを設定していった。
・参加者は4人(僕、小島君、前川君、進藤君)
・小島君の家に集まる。一軒家で広く、平日昼は親も誰もいない為。
・1人が、同じ具を一種、4人分持って来る(具は自由)。
・但し、具の項目には"麺"も含まれる。
・持って来る具については、当日まで匂わせも裏での口合わせも禁止。
というものだった。一人ひとりが一体どんな具を持ってくるか分からず、被ったらやたらハムの多い冷やし中華が出来上がる可能性もある。
小島君「もしかしたら麺のない冷やし中華が出来るかもな笑」
小島君が笑いながらそんなことを言って、僕らも笑った。そんな事態になったら面白すぎるのだけれど、この軽い発言が後ほど、僕らを地獄に引きずり込む事になるとは思いもよらなかった。
当日を迎える。この日も熱い太陽光線が地表に降り注いでいた。
小島君の広い家に集合した僕らは、全員が全員、わざわざ透明のビニール袋なんかではなく、紙袋とか、ショップで貰える上質なビニール袋(ポケモンセンターとかで貰えるようなやつ)に入れ換えて、中身を悟られないように準備してきていた。
別にただ冷やし中華の具を1種類持ってきただけなのに、まるで狂気の沙汰でも始めるかのような不敵な笑みを浮かべつつ、円形になって腰を降ろす。
僕「まずは僕からでいいか?」
特にルールなどは無いが、自分が持ってきたものは一番最初に発表した方が良さそうだった為、先陣を切らせてもらうことにする。周りの皆も謎の不敵な笑みを浮かべたまま頷いた。
僕「僕が持ってきたのは.......こいつだ!」
ドサッ
麺×4人前
まるでポケモンでも繰り出すかのように、この会のメインとなるであろう食材を召喚して見せた。
周りの皆も驚いたような顔を見せていた。
小島君「これで、"麺のない冷やし中華"ができる心配は無くなった.......!ナイスだ」
小島君もそんな風に讃えてくれた。
でも他の2人は、浮かない顔というか、どこかぎこちない笑みだった。
前川君「.......次は、俺が出そう」
前川君がちょっと、いや結構元気のない様子で次鋒の立候補をした。何かがおかしい。しかしほかの2人も断る理由が無いようで、要望は受け入れられた。
前川君は紙袋から取り出したものを、おずおずとスライドさせながら中央に差し出してきた。
ススーッ
麺×4人前
なっ.......!?
どうしたことだろう。いきなり麺が8人前になった。
事態の変化についていけない僕らは、中央に集まった8人前の麺を見てフリーズした。
進藤君「お前らに残念な報告がある」
.......いや、言わなくても分かる。僕らはきっと皆して、事前の小島君の発言を思い出していた。
小島君「もしかしたら麺のない冷やし中華が出来るかもな笑」
この発言により、僕らは互いに「確かにあいつら、アホだから具のことばっかり気にして麺自体を持ってこないかもしれない」と思ってしまったのだ。
そうすると当然進藤君が持ってきた物が想像出来る。
もうとっくにご存知なんだろ?とでも言いたげに、ビニール袋から取り出した"それ"を中央に投げつけた。
ドサドサッ
麺×6人前
え.......?
いや.......確かに想像は出来たけど、進藤君が持ってきた麺の量はどう見ても多過ぎだった。
+2人前というのは数字の印象以上にバカにならないほど増えている。
前川君「お前.......っ!!てか多過ぎだろ!!!」
進藤君「俺はお前らが"足りねぇな"とか言いそうだなーと思ったんだよ!!同じように麺を持ってきたのが悪いだろうが!!!」
僕「14人前って1人あたり3.5人前だぞ!!具も無しに食えるか!!!」
そんな事をギャイギャイと言い合い、絆などは既に崩壊しかけていたが、僕らは途中でもう1人メンバーがいた事に気づいた。
小島君だ。小島君は僕らに対して得意げな笑みを浮かべている。まるで主人公の窮地に現れた強い味方のようで、後光が差しているようにすら見えた。
まあよくよく考えたら、麺が14人前になったそもそもの原因はこいつなんだけど。
小島君「任せとけ、お前ら」
手首にスナップを効かせながら、小島君は袋の中の物を軽やかに中央に投げた。
きゅうり 4本
麺じゃない.......!!麺じゃないぞ!!!
僕らはそれだけで歓声を上げた。これでまた麺が来たら麺が18人前揃うところだった。小島君は僕らのどんづまった状況を打開するファインプレーを見せてくれた。助かった.......!まあ、麺が14人前になったそもそもの原因はこいつなんだけど。
僕らが歓喜に湧いていると、小島君は更に袋から何かを取り出した。
小島君「あとこれ.......デザートにどうかと」
ドスッ
ミスタードーナツ×8個が入った箱
「「「..............」」」
ちょっとまあなんつーか、悪くないんだけれど、「炭水化物多すぎね?」感は確かにあった。
これで小島君が持ってきたのがフルーツ類なんかであれば、彼は英雄になれただろう。この辺りに彼の詰めの甘さが見られた。
しかし彼の詰めの甘さはこれに留まらない。
小島君「ちょっと待ってくれ、俺ん家、ガチでどこに包丁があるかわからない.......」
集合したのは小島君の家なので、完全に包丁を拝借しようと考えていたのだけれど、当の小島君が包丁がどこにしまわれているのか分かっていなかった。
台所を色々探してみたが、結局包丁がどこにあるのかは分からなかった。のちのち聞いてみたら棚の中に包丁専用のケースがあったらしい。どんな家だよ。
僕らの眼前に現れた"絆-KIZUNA-"は、こんな感じだった。
〇1人あたり
麺 3.5人前
きゅうり 1本(包丁が無い為そのまま)
ミスタードーナツ 2個
正直、これが「冷やし中華になります」と言われて出てきたら怒るだろう。
麺の異常な盛られ具合と、きゅうり1本が完全に別個で存在していること、何故か合盛りされているミスド×2。意味不明だった。
高校生の腹と言えど、ずっと同じ味の麺が延々と続くのは辛く、きゅうりが別になってるのも辛く、ドーナツには無事にトドメを刺された。
僕らは長い事一緒に過ごしてきたが、そこには"以心伝心"の欠片も無かった事が確認出来た。小島君の部屋のCDプレイヤーからはORANGERANGEの"以心電信"が流れていたんだけどな。かなり残念な気持ちになった。
夏になると、どうしても僕は彼らと作った冷やし中華(?)を思い出してしまう。
幼き日を共に過ごした彼らとは今やほぼ連絡を取っておらず、自衛隊になっていたり、ポケモン界隈でちょっと有名になっていたり、ヴィジュアル系バンドになっていたりと、各々が全く別の居場所を見つけて活躍している。
あいつらも思い出してんのかな、あの冷やし中華(?)のこと。
連絡を取ろうと思えば取れるが、普段から連絡を取り合っている訳では無い僕らが、夏になったら冷やし中華(?)を通して互いを思い出し合う。そんな"絆-KIZUNA-"を作れたのも、まあそんなに悪い気はしないな、と思っている。
僕「頂きます!」
冷やし中華はじめました、と書かれた定食屋で、また僕の夏が始まった。
入道雲がある夏の青空
「あぢ〜。。」
24時間勤務という、入社から6年以上経っても未だに訳の分からない勤務体系で働いている僕は、昼に出勤した時は翌日の昼に退勤している。もちろん、朝の出勤なら翌日の朝、夕方なら翌日の夕方に退勤する。
暑くなってきた今の季節は、出勤の時も退勤の時も真昼間になるとしっかりと暑く苦しい。最寄り駅から家までまあまあ距離がある為、外を歩くのは非常に難儀だ。
今年はラニーニャ現象が延長したとされており、高気圧が日本に留まりすぎて暑くなるとされているが、蝉も鳴いていないうちからこんなにも暑いと......正直、先が思いやられる。
「〇〇(僕の名前)!」
最寄り駅に到着すると後ろからそんな風に声を掛けられた。意外と自分の家の最寄り駅で声を掛けられた事がないので、驚いて振り返る。
声だけで正直誰だか分かったが、振り返って、マスク越しでも何年ぶりでも、やっぱり誰だか分かった。高校の時の同級生の女友達だ。
「めっちゃ久しぶりじゃん!!元気だった?」
「元気なんかねえぜ。久しぶりだな!てか......え?」
声をかけてきた彼女は、おんぶ紐を前側にして赤ちゃんを抱えていた。赤ちゃんというか、大体1歳くらいの子だろうか。
「子ども産まれたんだっけ......?」
「えー!LINEで報告したじゃん!!」
「まじ!!?言われてみればされた気もする」
「ちゃんと覚えとけやあ」
そんな会話をした。正直LINEで報告された記憶が無いしされてないと思うんだけど、そもそもLINEを全然見ないのにTwitterとdiscordは見るみたいな、訳の分からないSNSの使い方をしている僕には何も言えなかった。
彼女は高校の頃、同じクラスで隣の席だった。クラス替えをしたばかりで互いに知らない同士だったが、とても仲良くなって、卒業までちゃんと仲が良かった。まさに元気ハツラツ、とても明るくて話しやすかった。男女混合の仲の良いグループに一緒にいて、放課後もよく一緒に遊んだ。
ちょうど今と同じくらいの季節のことだ。僕は五月病か夏風邪かは分からないが、教室でバテていた。その時の記憶が何故か今でも脳裏から離れずにいる。
「マスクあるの?保健室で貰っておいでよ!」
「マスク〜?別に喉痛いだけだよ」
「埃とか入んないようにだったり、咳が出なくても伝染るのを防いだり、マスクはした方がいいの!」
「あぁ、はい......」
具合が悪いのに何故か怒られている。でもその怒られは何だか心地よかった。
「何だか......お母さんみたいだな」
彼女は面倒見が良く、本当に頼りになった。
「ふふ、お母さんみたいっしょ〜」
そうやって高らかに笑う彼女の明るい笑顔は、その時の窓の外、入道雲がある夏の青空がとてもよく似合っていた。
「最後に会ったのっていつだったっけ」
「わかんないな〜、何か一回2人でご飯行ったよね笑」
「行ったな!入社してすぐぐらいだな」
「結婚もしてなかった頃だ」
彼女が結婚したと知った時、本当に驚かなかった。逆に驚かなかったことにびっくりした。彼女への恋愛感情があった訳ではないが、絶対良い人と寄り添って結婚もするだろうと確信していた。
「この子は......名前はなんていうの?」
「"しずく"だよ」
「しずくちゃん?」
「しずくちゃんだね」
「そうかぁ......本当にお母さんになったんだな」
多分、彼女と最後に会ってから気がつけば6年ぐらい経っている。高校の頃、そんなに会わなくなるとか、そもそも未来の僕らの事とか、考えもしていなかった。
「ふふ、お母さんになっちゃったね」
そう言って子の顔を見たまま笑う彼女の表情は、優しくて、落ち着いていて、そしてどこか寂しそうに見えた。
僕は高校生の頃、有り余るエネルギーを毎日爆発させながら生きていた。ずっと楽しく生きることに夢中だった。
大人になる途中、何回も失敗して、諦めることや、挫折なんかも沢山経験してしまった。
早く大人になりたいなぁと思いながら夢中で生きていたけれど、大人になればなるほど、後悔ばかりする生き物になった。
きっと彼女も、色々な大変な事があって、今も色々な事を抱えているのだろうと思う。わざわざ聞きはしないが、あまり明るいとは言えない彼女の表情がそれを物語っていた。
僕らは変わっていく。
理解してくれない大人なんて!と反発したりもしながら生きてきたが、気がつけば理解してもらう為の建前を用意して、人付き合いに失敗しないように生きるようになった。
あの頃の、毎日が楽しくて仕方ない!という気持ちは今、エネルギー切れを起こして揺れ動かなくなってしまった。それに気づくことも無かった。
彼女に会ってようやく、僕もエネルギーが切れている事に気づいたように思う。
あの頃のように、また毎日楽しくて仕方ない、また明日も楽しいことがあるかなと、うきうきしながら生きることが出来るだろうか。
きっと出来るだろう。
良くも悪くも、過去はなかったことにはならない。変わろうとすると大変だが、あの頃のようになるのなら、意外と大丈夫な気がするのだ。
じゃあまたね、と彼女と別れて帰路につく。
退勤して暑くて全てに疲れていたが、何だか無性に元気が溢れてきた。大人になって少し変わった彼女も、相変わらず僕に元気をくれた。
真上に到達した太陽の方向をふと見上げる。
入道雲がある夏の青空だけは、あの時の窓の外のように変わらずそこにあった。
らしさ / SUPER BEAVER
なんとなく僕たちは大人になるんだ。
「いや〜どうしたもんかな…」
スマホの画面を指でちょこちょことスクロールさせながら、友人の入沢君が言った。
互いに不規則なシフト制の仕事をしている中、たまたま仕事終わりの時間が被り、一緒に行ったサウナで無事に整った所だった。今は大広間の休憩スペースで、時間も何も気にすることなくだらりとしている。
外は梅雨の始まりを告げるかのように、雨が強く降ったり止んだりを繰り返している様子だった。
「どした?何か調べてるみたいだけど」
そう尋ねると、入沢君はやはりスマホの画面に目を落としたまま、さり気ない様子で話し始めた。
「マッチングアプリを始めたんだ」
「ほう、マッチングアプリを?」
「流石に家庭を持って落ち着きたくてさ、必死なんだよ」
「そうか〜頑張れよ」
「いやお前は!?」
「え?」
めちゃくちゃ他人事のように聞いていたけど、よくよく考えたら僕も別に結婚してるわけでも恋人がいるわけでもない…。まあしょうがないっしょとか思って、焦らず、かと言って何もしていない状態だ。
「マッチングアプリとか街コンとか、そういうので頑張って彼女を作って、ちゃんと結婚しようとしてるの、凄く偉いと思う」
「どれも男側だけ金かかるのが癪だがな」
「まあまあ、でもそれだけ将来を見てるってことじゃん。」
「ありがとよ、で結局お前はどうなんよ。」
「僕はまあ…そうだなぁ。そこまでの熱意が無いというかね。結婚自体に憧れるとかも無いもんな。出来るなら家庭を持って落ち着けたらいいけどって感じだ。」
もちろん、甘い考えだって事も分かる。でも本当にそこまで頑張る気力も無いのだ。見た目も悪く、女性にモテる自信が無いような人間ともなると、大抵そんなもんじゃないかと思う。
「怖くないのか…?1人で死んだりとか」
「うーん…怖くないな」
外ではまた音を立てて土砂降りの雨が降り始めた。
「結局1人だろうが周りに家族がいようが、死ぬのって怖いし」
そうか〜と入沢君は、相も変わらずスマホの画面とにらめっこしながら言う。半分聞いていないような感じだが、まあ別にいいだろう。
大粒の雨が地面を打ち付ける音だけが、大広間の中に流れていた。
ポキポキ♪
翌日、休みだというのに出かけもせず家でぐーたらしていると、LINEの通知が来た。
『笹くん…?』
本当に僕の連絡先かどうか、確認するような文言だった。そのLINEの送り主を見る。
「えっ…?」
驚いて、思わず声が出た。僕が大学の頃のバイト先で、僕が好きだった女先輩とデキ婚したあの男先輩だった。懐かしい。あんな事があったけど、まあ勝手に好きになっていただけだし、幸せならOKです!の精神で、結局男先輩とは普通にその後も仲は良かったのだ。
その時のエピソードは以下の通り。
https://sasadangokko.hatenablog.com/entry/2021/10/28/191607
(これに習って、男先輩を上海さん、女先輩を宮城さんとする)
ていうかそもそもLINEは交換していたから、別に確認しなくても俺なんだけど。
『上海さん!お久しぶりじゃないですか〜〜!元気でしたか?』
『まあな、ぼちぼちやっているよ』
『皆さん、変わらず元気にしていますか?』
それはもちろん、宮城さんや、生まれたお子さんのことも含めてだ。皆が元気でやっていれば本当に嬉しい。
長文を打っているのか、返事が遅かった。別に気にすることもなく漫画を読みながら待つ。
ポキポキ♪
LINEの通知音がしたが、漫画がいい所だったので一応認知しときながら、片手間にスマホの画面を見る。ちょろっと見えた通知欄に「ん!?」と驚いて、思わず漫画をぶん投げてスマホの画面に見入ってしまった。
『いや、今はもう分からん。離婚したからな俺。』
背後でバサッ!と漫画の落ちた音が聞こえた。
上海さんは離婚していた。
つまりはそういうことである。宮城さんといつの間にか離婚していたのだ。
『あらあ』
本当はめちゃくちゃ驚いたけれど、驚いた反応を期待されてそうで嫌だなと思い、逆張りであんまり驚いてない感じを見せた。ちょっとダサい。
『まあ、色々ありますよね』
『そうだ、色々あったんだ』
『あんまり反りが合わなかったんですか?』
『いや、単純に俺が(アンジャッシュの)渡部になっただけだ』
『あらあ〜』
本当はめちゃくちゃ驚いたけれど、驚いた反応を期待されてそうで嫌だなと思い、逆張りであんまり驚いてない感じを見せた。正直、もう展開が斜め上過ぎて、僕はと言うと完全に頭を抱えていた。
アンジャッシュの渡部さんということは、要するにそういう事だ。上海さんは、多目的では無いかもしれないけれど、いわゆる不倫に至ったのだ。その結果、家庭は崩壊した。
上海さんは「完全に俺が悪い。」と言っていた。ちなみにその不倫相手と再婚したらしい。
その後のやり取りは近況報告ぐらいだったが、正直言ってショックでよく覚えていない。
『笹くんは渡部でなく、ウィル・スミスになれよ』
なんて言っていたが、正直今ウィル・スミスになって、ようわからん冗談を言っている上海さんを殴りたい気分だった。
もはや今から8年前のことだ。
宮城さんを夢中になるくらい好きだった僕は、その結婚&妊娠の発表があった後、バイト中だというのに頭が真っ白になった。
上海さんは僕の恋心を知って、応援するよと言ってくれていたり、宮城さんも宮城さんでめちゃくちゃ思わせぶりだったり、色んな事が重なった結果だった。
でも、それもこれも僕が勝手に好きになっただけなんだと割り切って、2人に向けて「結婚おめでとうございます!」と言い、頭を垂れた。
涙が落ちそうになった。
平気なつもりだった。それなのに何だか得体の知れない涙が落ちそうになった。
悔しいのか、嬉しいのか、訳の分からないまま涙が溢れそうになる。それを見られまいと、下げたままの頭を上げないままで、2人の前からスライドアウトした。
その後には、生まれてきた赤ちゃんの写真がしばらく送られてきていて、その幸せそうな様子から、「あぁ、この2人が夫婦になって本当によかったな」と思ったものだった。
今になって、不倫して、離婚して、その幸せをぶち壊した上海さんからの連絡を見て、僕の気持ちはあの頃に戻っていく。今の自分にならはっきりとわかる。
あの時僕は、悔しかったのだ。悔し涙を流しそうになっていた。
本当に最近まで、勝手に好きだから〜なんて言っていた。でもそれは本心から出た強がりでしか無く、本当は振り向いて欲しかったのだ。
そんな強がりを見せながら、どの面下げてかは分からないが、僕も偉そうに「勝手に好きになっただけと思おうよ〜アイドルを好きになるのと同じでさ」なんて後輩とかに言っていた。
好きになった人には好きでいて欲しい。そう思うのが人間だ。
身なりを整えたり、相手を気遣ったり、振り向いてもらおうと躍起になったりする。
それは僕も同じだった。
あの時僕は本気で宮城さんが好きで、本気で悔しかった。
今この離婚報告を聞いても、宮城さんがどうしているかは僕も分からないし、今から自分がどうこうしようなんて当然思わないけれど、幸せであれと本気で願った分、やるせなくて、やりきれなくて、でもそれらも全部自分の勝手な想いで、やっぱりめちゃくちゃ悔しかった。
『今度飲もうよ!』
僕はそんな上海さんからの誘いを有耶無耶に返しながら、昨日から振り続ける雨の音に心を委ね、気持ちを落ち着けようとしていた。
「......」
「......」
以前と全く同じ大広間で、全く同じいい歳した男2人が、本当ににらめっこしているのかという具合に向かい合ってスマホを凝視していた。
またもやたまたま仕事終わりの時間が被り、サウナで整った所である。
「あんまりうまくいかんなぁ…」
「マッチングアプリ?」
「あぁ。」
僕が尋ねると、入沢君はやはりスマホに目を落としながらそう続けた。
「会った人皆めちゃくちゃいい人だったんだけど、やっぱ何だろうな、俺は我慢するのが嫌なんだよなぁ。」
「我慢…?」
「ああ、まあ確かに早いとこ落ち着きたいけど、我慢してまで付き合いたくはないだろ。」
「そういうもんか。」
「そういうもんじゃね。」
今日の外は、何だかポカポカ陽気である。そんな日に2人でサウナに来ているなんて完全にやってる事はおじいちゃんだが、僕らは恋人もいないのでそんなことは気にしなかった。
「真面目に考えてるんだな、人と付き合うって事を」
「当たり前だろ〜?生涯のパートナーになるかもしれない女性だぜ。そりゃ真剣よ。」
「浮気とかは?」
「するもんかよ。そんなに器用でもねぇし。」
「そうか、まあ大丈夫だろうな。」
別に浮気を責めるような義理など僕には無いのだが、まあどっちにしろ、入沢君はパートナーを幸せにするような気がする。
「そういうお前はどうなんだよ。何にもなしか?」
「何にもなし!」
僕が元気に応えると、「元気に言うな!」と突っ込まれた。
「まあでも大丈夫だろうな」
入沢君も、僕と同じような言葉で返してきた。
「俺、別にマッチングアプリも街コンもやってないから大丈夫じゃないんじゃね…?」
入沢君は、久々の連載再開ですと言わんばかりに、スマホから顔を上げこちらに目を向けてきた。
「お前は大丈夫だ、心配いらん。お前が幸せになれなかったら嘘だ。」
入沢君とは会社に入ってからの付き合いだが、色んな悩みを相談し合ったし、互いにスマホに目を落としたままでだらりとしていても気にならないぐらいの関係だ。
何だか言葉以上の気持ちが篭っているようなきがして、嬉しかった。
「ありがとう、大丈夫な気がしてきたわ。」
「大事なマインドだぜ。」
この間の悔しさは、そんなに時間が経っていないのにすっかりと消えていた。
幸い、現実でもインターネットでも、縁には恵まれている方だと思う。これからも色んなコミュニティで、臆することなく色んな人に出会って、色んな意味で好きな人を増やしていきたいものだ。
宮城さんは結婚後、会社を辞めた後に再会した時、特に恋人もいない僕にこう言ってきた。
「出会いたくなくても、出会っちゃうもんだよ。」
今、悔しかったり嬉しかったりした、あの時の気持ちにケリをつけるように、やはり宮城さんが幸せであるよう強く願う。
そんなふうに思えるのも、僕が大人になったってことなのかもしれない。
なんとなく僕達は大人になるんだ。
又見面了!
突然、今が2022年である事に驚く事がある。
自分が産まれたのが1993年と考えると・・・もうあんなに近かった気がする90年代は、少しずつ「30年前」の事になっているのだ。
僕はそれを「星のカービィ30thAnniversary」というのをTwitterで見て知った。カービィってもう30周年なの・・・!?僕と同じくらいに生まれたはずでは・・・。
ちょっと待て。僕も30thAnniversaryなのか。
まだ30年生きた訳では無いが、ここまでの人生は嬉しかったことも楽しかったことも、辛いことも挫けそうなことも本当に色々あった。
僕は一時期、色々あって仕事上僻地に飛ばされた事がある。その時は本当に辛く、「心が折れる音って本当に聞こえるんだ」と分かるくらいしんどかったのを覚えている。
しかし、知らない人ばかりの環境の中でも、折れて潰れそうな僕の心を支えてくれる人はいた。
それは2019年、3年前に当時30歳だった、職場のアルバイトの台湾人の兄貴だった。
台湾人の兄貴は、日本語がペラペラという訳では無いが、そこそこ話せる人だった。
初めましてと挨拶をし、自己紹介をし合った。何で日本にいるんですか?と聞いたらピッ!と手を前に出されて「敬語、難しいからやめよ」と言われた。
何なら日本語を学ぶ為に今は日本に留学?に来ているらしかった。30歳になってからそんな決断をするなんて・・・当時の僕とは真逆の、活気のある人だと感じた。
笑顔で「よろしく!」と言ってきて、握手をした。
その台湾人兄貴は昼飯にいつもミックスナッツを食っていた。ご飯とナッツではなくて、ナッツオンリーである。
ダイエット中?と聞いたら「やすいから」とか言っていた。スーパーに売られてるナッツとか全然高い気がするんだけど・・・腹持ちが良いということなのだろうか。
タッパーにナッツを詰めて、昼飯の時間に大事そうに食べる光景は異様だった。別に異文化を感じた訳でもなく、ちょっと怖かった。台湾ではナッツが主食であるとか、そういった話は聞いたことがない・・・人としてぶっ飛んでいるとしか思えないのだが。
「たべる?あなたも」
そう言ってタッパーを差し出してくる。
まあ悪い人では無いのかなと思った。
ある日、職場でナッツが暇そうにナッツを食べていた。
気がつくと僕はこの台湾人兄貴をナッツとか呼んでいたが、ナッツも別に気にしないでくれた。「ナッツばっか食ってるからナッツと呼ばれ始めたのかな」ぐらいに思っていてくれれば嬉しいが。
「なんか中国語おしえて」
僕はそう話しかけた。そうするとOK!と言い、メモ紙のようなものに何かを書き始めた。
何を書いていたかはよく覚えてないが、簡体字と繁体字があるよ、という事から教えてくれた。
簡潔にしか聞いていないが、中国大陸では簡体字、台湾では繁体字と覚えていれば良いらしい。
中国語のような言葉を話していて、難しい漢字を書き始めたら台湾人だ。まあ広東語とか、もっと細かい違いはあるのだとは思うけど。
何で台湾と北京(首都)では繁体字と簡体字で違うの?と聞いたら「あいつら頭バカだから」と言っていた。
口が悪いなと思った。
普通に知らなかったので面白かった。へー!そうなんだ!とか言ってしまった。
ナッツがさらにメモに走り書きしてくれた。メモには「幹你娘」と書かれていた。
「どういう意味か分かる?」
ナッツが聞いてきた。中国語は漢字を使うので、日本語と通じる部分が多々ある。文法が分かれば読めてしまったりもする。「手紙」の意味が中国語ではトイレットペーパーだったりと、違う場合もあるけど。
この「幹你娘」という言葉も、何かそれに通じる部分があるという事だろうか。
確か「我愛你」でウォーアイニー、「私はあなたを愛しています」という意味であるはずなので。"你"は"あなた"をさすのだろう。
「你娘」は、「あなたの娘」という事だろうか。
厄介なのは"幹"である。幹が何なのかどうしても分からない。
ギブアップし、意味は何?と聞いてみたら、ナッツは爽やかにこう答えた。
「f××k you」
口が悪いなと思った。
何なら、「娘」の部分は中国語だと母親と言う意味で、直訳すると「てめえの母親を犯すぞ」という意味らしかった。
中国や台湾では、自分の母親をどうこう言う事は侮辱であり、犯すなど最大の侮辱であるとの事だった。だからf××k youで大体合っているらしい。
ナッツは他にも「閉嘴(黙れ)」「吵死了(うるさい)」「你不要再説了(これ以上話すな)」等の中国語を丁寧に教えてくれた。全部大体同じ意味である。
あとは「小偷(泥棒)」「老頭(ジジイ)」「傻子(バカ)」等も教えてくれた。
正直、ナッツからは殆ど暴言しか教わらなかった。
ある日、ナッツが怒り気味に上司を指さし、コソコソと僕に何か言ってきた事があった。
中国語だと分からないし、かと言って英語で言われた言葉も何なのかよく分からなかった。最早上司までナッツが何を言っているのかを気にしていた。
翻訳アプリを起動し、中国語で話してもらうと、翻訳アプリが丁寧に日本語に訳し、音声を流してくれた。
『あの人は、アルツハイマー病ですか?』
本当に口の悪い奴である。
思わずバッ!とナッツの方を振り返る。彼はニコニコとしていた。上司の方も振り返る。上司はちょっと気まずそうに下を向いている。
どうしてくれんだ・・・!翻訳アプリを経由してまで暴言を伝えてしまったじゃないか。
確かに、何かちょっと「Alzheimers」と英語で言っている感じはあった。でも流石にアルツハイマーとは言ってないよな・・・違う意見を上司に伝えようとしているよな・・・と思っていたのに、まさかのアルツハイマー病で正解だった。
その場は「No!No Alzheimers」と言って場を収めたが、上司は何とも言えない顔をしていた。「海外の人から海外の言葉で悪口言われるの怖いよ・・・」と後で言っていた。印象深い出来事だった。僕は内心笑ってたけど。
ある日、ナッツは「おはようアル〜」と言って職場に来た。
これは僕がナッツに「中国系の人って日本人と顔一緒だから、語尾に『アル』ってつけると中国の人って分かりやすくて良いよ!」と教えたせいである。僕も大概だった。
それ以来、ナッツはちゃんと「おひるにジュース〜?ジュース飲むのは子どもアル!」とちゃんと語尾に付けてくれた。本気で言っているのか合わせてくれてるのかは分からないが、面白かったので黙っていた。
まだ仕事前で暇だったのか、ナッツが話しかけてきた。
「好きな日本語って何かある?」
僕からも日本語を教えたりしていたが、好きな日本語となるとまだ教えていなかった。
というか、いざ「好きな日本語は?」なんて言われると結構困る・・・暴言も良いかなと思ったけど流石にアレなので、悩みに悩んだ末、日本らしい言葉を教えることにした。
それは「泡沫(うたかた)」である。
うた‐かた【泡=沫】
《「うたがた」とも》1 水面に浮かぶ泡(あわ)。
2 はかなく消えやすいもののたとえ。
泡沫、特に2つ目の「儚く消えやすい」という意味が僕はとても好きだった。
昔の人が、水面に浮かんだあぶくが弾けて消えてゆく、その儚い様子に名前をつけたのである。思わずその感性を尊敬してしまう。
それと"うたかた"という言葉の響き、これがまたとても良い。日本語のなかでもからころとしていて、発してみて気持ちの良い言葉であるように思う。
だからこの言葉を教えようと思った。
しかし、教えるのはかなり難しかった。
泡沫(ほうまつ)と書いて、うたかたと読むのがまず意味がわからないのである。
しかも意味も「水のあぶくが消えるのが儚い」という、完全に日本人の感性である。ナッツ的には「どうして?」だったらしく、当たり前だけど、全く理解しては貰えなかった。
言葉の意味としては、もうそういうもんとして理解して貰った。
"うたかた"って言葉の響きは綺麗でしょ?と聞くと「それはそうアル」と頷いていた。
逆にナッツにも「好きな中国語ってあるの?」と一応聞いてみた。
口の悪いこの人の事だから、どうせまた新しい暴言を教えてくるだろう・・・と思った。
ナッツは少しうーん・・・と天井を見ながら考えた後、僕に向き直ってこう言った。
「ザイツェン」
ザイツェン・・・中国語で書くと再見、要するに「またね」という意味だ。
何で再見が好きなの・・・?と聞いてみた。
「中国語の別れの挨拶は、"再見"しかないアル。日本語はさようなら。英語はバイバイ。色々あるけど、別れる時に『また会える』と言うのは中国語ぐらいアルよ」
と言っていた。さらに言えば、中国語では「行ってきます」も再見・・・「また会える」と言うらしかった。
人に対しての前向きな別れの挨拶が、とても好きだとナッツは言っていた。
また暴言を教えられるかも、と身構えていたが、その言葉はよく職場を出るナッツから聞いていた言葉だった。
そして、その言葉が好きなナッツの事を、僕はとても前向きで、素敵な人だなと感じられた。
「まあ、嫌いな人にも再見って言うけど」
そう言ってナッツは笑っていた。
本当に口の悪い奴だな、とも改めて感じた。
結局、僕が職場をまた異動することになり、ナッツとは離れることになってしまった。
「故郷に帰れるアルね!おめでとうアル!」
その前にこの語尾を直した方が良いんだろうか・・・と思いもしたが、面白かったのでそのままにしておいた。
職場での最後の日、ナッツは僕に握手を求めてきた。
「ぜひ台湾にも遊びに来てね」
「あぁ、必ず行くよ」
そんな約束をした。口の悪い男は爽やかすぎる笑みを浮かべながら僕に言った。
「再見!」
その言葉は吹雪が止んだ後に射し込む太陽の光の様に、僕の気持ちを暖かくしてくれた。
僕もこれが一番好きな中国語かもしれない、そう思った。
結局、職場を離れるとナッツとは一度も会うことが無かった。
4月になってしばらくしてから、鳥取砂丘に行ったらしく、砂丘をスノボで下ってはしゃぐ動画が送られてきて、非常に困った。これ・・・怒られないか・・・?
ただ、一度疎遠になってしまうとなかなか連絡を取り合うことも無くなる。
その年の夏、急にナッツから連絡がきた。
「明日台湾に帰る!ありがとうございます🙇♀️」
「え、1回くらい日本にいるうちにまた会いたかったけど仕事や!」「それは残念・・・」というやり取りをした。
仕事しながらだったのでスマホを開けず、しばらくしてから「再見」と送って、同じように「再見」と返してくれて、今やもう3年が経とうとしている。結局それっきりになってしまった。
まるで"泡沫"のように、彼は日本からいなくなった。
"古池や 蛙飛び込む 水の音"
これはかの有名な松尾芭蕉の代表的な俳句である。
以前にも話した事があるが、これは日本人特有の感性を表している名句である。
おそらく大体の日本人がこの句を見ると、寂れた静かな古池に、一匹の蛙がポチャンと池に飛び込む音が響いている、そんな情景を思い浮かべるだろう。
しかし、これが中国語でも英語でも、訳されるとなるとそうはいかない。蛙は必ず複数形となって訳されてしまう。
要するに「古い池に蛙がバチャバチャ飛び込む音が聞こえてうるせー!」みたいな意味になってしまうのだ。情緒もへったくれもない。訳した人も、どこが素晴らしいのか疑問に思うだろう。
俳句には日本人特有の感性でしか享受できない表現も多いのである。
"泡沫"も例外ではない。
水のあぶくが水面で消える様子を"儚い"とはなかなか思わないだろう。ナッツに説明する時とても苦労したが、でも、何となくわかる気がしてしまうのだ。
同じように、色んな国に、色んな文化があって、出身国特有の感性で生きている人がいる。
恥ずかしながら、僕は海外に行ったことは無い。いつかいってみたいな、と本当に思う。
"井の中の蛙大海を知らず"
なんて言葉もあるが、この蛙とはまさに自分の事だ。
大海を知り、古池という井の中に今までとは異なる水の音を響かせながら舞い戻る・・・そんな旅をしてみたいものである。
どこに行くかとなれば、まずはやっぱり台湾だろう。
台湾には友達がいる。口が悪く、昼にはナッツばかり食っていた彼と再び会う約束をした。会った時、必ず伝えようと思った中国語を新しく覚えたのだ。
彼に会い、僕はきっと一言目にこれを言うだろう。
「又見面了!(また、会えましたね)」