笹団子の降る夜

読んだ漫画の感想を、自分勝手に書きます。

風鈴のように

 特に用など無いのだが、地元の神社に来た。

 一時期、何だか運の巡りが悪かった頃に、思い切って旅行がてら色んな神社を奉拝する旅に出たことがある。お賽銭を入れ、感謝を述べたそんな自己満足の旅だった。

しかしその後、立て続けに起きていた悪い流れがぴたりと止み、平穏な日々が訪れた。たまたまかもしれなくても、それ以来、特に用は無くても何となく神社に来るようになってしまった。

急に、久しぶりとでも言いたげに一匹のセミが鳴き始める。まだ梅雨明けのじめっとした重たい風が吹き、けたたましいセミの鳴き声の隙間に、今度はさわやかな風鈴の音が聞こえる。

早いなあ、とも思ったが、何だか懐かしい気分になる。風鈴の音を聞くと思い出す人がいる。

それは桜が既に散った頃、新しく社会人として職場に訪れた6年前の春の事だった。

 

 

 僕の会社は入社式が終わった後、職場ではなくいきなり泊まり込みの研修に行かされるタイプの会社だ。なので、もうGW前にもなるのに職場に訪れるのは初めてである。

とても緊張しながら職場に行くと、出迎えの人が立っていた。えっ!!?!?とかなり驚愕した。半端ない美女が立っておられた。

 「は、はは、初めまして・・・!」

もともと緊張していた事に加えて、話すのも緊張するような美女を目の前にし、最初っからとんでもない噛みっぷりだった。 

「緊張してる〜笑」

 そう言って微笑みかけてきた美女は、僕より1年前にこの職場に来た先輩だった。

 しかし、それ以降はしばらく、この先輩との会話らしい会話はしなくなってしまった。

 

 

 仕事は大変だった。毎日毎日覚えることが多く、研修の意味ってあった?というくらい忙しく、全然板につかなかった。

 一緒に働いてみて分かった事だが、美人な先輩は「自分の好きな人以外とは話したくない」というハイパーお転婆な、お姫様みたいな人だった。当然好きなわけが無い自分とは全然話さず、好ましくない上司の事もシカトするため、おじさん職員達から裏でやいのやいの悪口を言われていた。

 気持ちは分からなくもないけど、本当に高嶺の花みたいな人だなぁ・・・と思い、そもそも学生の頃のクラスでも陰キャだった自分は、話せなくても仕方ないよなと思っていた。

 

カザフスタンの女子バレーのサビーナ選手と、多部未華子さんと、新川優愛さんを足して3で割ったような横顔をたまに眺めさせてもらうだけで、自分は充分だと思えた。

 


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 半年ぐらい経った時、既に夕日に菊の花が舞う秋の頃だった。

 自分はもう仕事も覚え、何なら慣れまくっていた。変わってないことと言えば、まだ全然先輩と世間話の1つも出来ていない事ぐらいだ。しかしこの時、仕事に慣れまくり過ぎたが故に、とんでもないミスをしてしまった。  

僕はこれにかなり凹んでしまった。家に帰っても、何もする気が起きなかった。

 スマホにLINEの通知が来る。画面のメッセージの送信者に、先輩の名前が表示されていた。 

 えっ!!?!??とめちゃくちゃ驚き、飛び上がった。先輩の連絡先など聞ける訳もなく、向こうも知らないはずである。

 「心配になっちゃって・・・〇〇に連絡先聞いたんだ〜」

 〇〇とは、先輩と仲の悪い同僚の事だった。先輩は、仲の悪い同僚にまで僕の連絡先を聞いて連絡してくれた。そして励ましてくれた。

 「私だって、こんな失敗したことがあるんだよ」

 と、色んな仕事の失敗を教えてくれた。凛として堂々とした佇まいの、普段の先輩とは思えないようなミスで、少し笑ってしまった。しかも、プライドだって高そうなのに、自分を励ます為にそんな事まで教えてくれるのか・・・と、感動した。

 

 クラスのマドンナみたいな人で、話しかけようなんて今までの僕は思わなかった。諦めていた。

 でも、自分をこんな風に励ましてくれる人に、そんな境遇とか関係ないなと思った。この先輩の事をもっと知って、何と言うか、単純に仲間になりたいと強く感じたのを覚えている。

 

 

 それからは自分からも積極的に話しかけるようになった。そうすると、意外と先輩は自分なんかとも話してくれた。

 最初はぎこちなかったが、段々と向こうから話しかけてくれる事も増え、いつの間にかもう関係なく、友達みたいに喋るようになっていた。先輩は、相変わらず好きじゃない人の事は無視していた。軸のブレない人だな・・・と思いつつも、凛とした先輩らしいなとも思い、僕は気にしなかった。

 

 更に時が経ち、積もった雪がまだ溶けきらない3月末に、僕と先輩で次の新入社員の名札を作ることになった。

 職場にあったテプラを使ったが、2人とも使った事が無かったので使い方がよく分からなかった。 

「どのサイズのテープが一番良いんですかね?」

「この一番小さいので良いんじゃない?デカすぎる名札とか嫌でしょ」

 そして最小サイズのテープをテプラにセットし、名前を印刷した。

 

ピー ガチャ

 

米粒みたいなサイズの名札が誕生した。  

 えぇ!?と声を上げて驚く自分をよそに、先輩は笑い過ぎて腹を抱えて倒れ込んでしまった。

 普段凛とした先輩がこんな笑い方するの!?とそっちにも呆気に取られたが、出来た名札は、何かもう目には見えないくらい極細だった。 

 ちゃんとしたサイズで作り直したものの、この時僕も頭がおかしくなっていたので、所定の向きとは逆さまに名札を作成してしまった。

 この時、もうゲラになってしまっていた先輩はまたしても爆笑し、「もう、ばか!」と言いながら僕の肩をぺちと叩いた。

 上司からも「お前ら、姉弟みたいだな」と笑われた。

 

 話は変わるが、自分の会社は当時、ステップアップとして、3年ほど経つと全く新しい別の仕事に触れる為、異動することになっていた。

 自分も入社してから2年が経とうとする。もう先輩とは仲良くなり過ぎて、何か普通に出かけたりする仲になっていた。

 たまに喧嘩してしまう事もあったが、次の日、大層不機嫌そうな先輩に謝りに行くと、不機嫌な表情のまま手を広げ、差し出し、「エクレアが良いかな〜・・・」とか言ってきた。

 コンビニまで走り、急いで戻ってきて手渡すと「気が利く〜!ありがとね」と上機嫌に、いつも通りになった。

やきもきしたこっちの身にもなってくれと思ったけど、これで許して貰えるならまあいいやとなった。こんな日々が続くなら、結構充実してていいなぁと思ったが、ずっとは続かないと心のどこかで思っていた。先輩の異動の時期は迫っていた。

 

 

 異動する時期は決まって6月の終わり、梅雨が明けたか明けていないかぐらいの時だ。 

 先輩は・・・泣いていた。びえびえと泣いていた。送別会で、「今までシカトしてたのは一体・・・」と引くくらい皆に別れの挨拶をしていた。僕のことは最早放ったらかしだった。

 くそ・・・最後だってのに全然話してくれねぇよ!と思いながら、送別会も終了し、帰りの電車に乗った。

 明日からもう職場に先輩は来ないんだよな・・・と思うと、何だか猛烈に寂しくなった。今更だが、泣きそうなのは僕の方だった。思い出が沢山蘇ってくる。思わず項垂れてしまった。

 

「ねえ」

 

びくっ!として、振り返ると花束を抱えた先輩がいた。

 

「荷物多いから持って欲しいんだけど、力持ちさんに」

 

 先輩はもう泣いておらず、いつの間にかイタズラっぽく微笑んでいた。 気がつくと職場の人間は、もう僕と先輩しか車内にはいなかった。 

 

 先輩の荷物を受け取りながら、この日久しぶりに先輩に話しかけた。

 

「これから・・・違う職場になりますけど、今までみたいに一緒に遊んだりしてくれますか」

「うん」

「嫌な事があったら、飲みに誘ってもいいですか」

「うん」

「LINEとかでウザ絡みしても、いいですか」

「うん、いいよ」

「じゃあ僕とは・・・今までと変わりなく」

「てかこれで終わりみたいな雰囲気出すな」

急に少し声のボリュームが上がったので、またもびくっとしてしまった。

「別に職場を出ても何も変わらないよ。正直もう友達みたいな感じじゃん。それに来年、もし笹が私と同じ職場に来たら、うんと可愛がってあげるし、沢山教えてあげるし、悩みも聞いてあげる!だからこれで終わりじゃないの。」

 先輩が職場を出たら、楽しくて輝かしかった毎日が嘘のように、全部崩れていってしまうと思っていた。

 でもそれは考え過ぎだった。

 更に先の事を考えれば、また先輩と同じ職場の後輩になれるかもしれない(同じ職場じゃない可能性もあったが)。別に今までの関係性が崩れる訳でもないのだ。

「可愛がるって・・・カラオケのリモコンとかで殴るんすか?」

「それは日馬富士だから」

 あんな送別会で泣いてた先輩が、僕の前ではいつも通りだった。人の心は読めないが、自分の前ではそう振舞ってくれる先輩の事が、僕はめちゃくちゃ大好きになっていた。

「先輩、次の職場でも頑張ってくださいね」

握手を求めて片手を差し出すと、先輩は僕の手を両手で包むように握ってきた。

「・・・うん」

 そう言って先輩は、僕から荷物を受け取って振り向きもせずに電車を出ていった。

 僕の右手には、最後に少しだけ力強くぎゅっと握った、先輩の両手の温かさが残っていた。

 

その後、先輩からは「しゃしんくれ」とLINEが来た。

 

 

 

 セミはいつの間にか2匹になっていた。

 神社に来てつい物思いにふけってしまう。あの時は今と同じような、梅雨が明けてんだか明けてないんだかというような、じめっとした風の吹く日だったっけ。

 僕は鈍感で、先輩が職場から居なくなるタイミングでようやく好きになっていたのだ。高嶺の花過ぎて、最初からそのつもりが無さすぎたのだろう。

 セミはいつの間にかまた1匹になった。最初から鳴いていた方なのか、後から来た方かは分からないが、何だか鳴き声が苦しそうで、けたたましい印象を受けた。

 こんなじめっとした風が吹く、先輩が職場から居なくなって、さらに1年後の僕のことも思い出してしまった。 

 

 

「行けないって・・・どういうことですか・・・?」

 

 上司から言われたのは、ステップアップは無いという話であった。先輩のような異動は無いということである。

「そんな・・・同期は皆行けてるのに・・・?」

 上司も残念そうに首を縦に振った。信じられない事だった。当たり前だと思っていた事が奪われた瞬間、将来への不安は心の中でとてつもなく大きくなった。

 ちなみに、僕と先輩はそこそこに相変わらずだった。異動は無かったという連絡をすると、彼女も驚き、言葉を尽くして励まし慰めてくれた。元々「同じ職場に来てね!待ってるから!」と言ってくれていた人だ。そんな人への報告がこんな残念な物になるなんて・・・と悔しかった。

 それからの僕は、追い討ちをかけるように3ヶ月毎に同じ仕事の別部署に異動させられ、新しい環境に身を置いた。やる仕事は大体同じでも、新しい環境に順応するのは極めてストレスのかかることであった。

 他にも語り尽くせない程の自分にとって苦しい瞬間が多々あり、恐らくここからの一年で自分の精神はかなり病んでしまった。

明らかに何かやらかしたレベルの異動のスパンだった為、異動先で「使えなくて捨てられて捨てられて・・・今度はここに来たのか」と言われたりもした。僕は自分に並程度の自信はあった。しかし、ここまでの積み重ねで、自信などは一切無くなり、自分の事が嫌いになり、もう誰かの為にだけ生きようと目標を転換したのだった。

 

 「誰かの為に生きようと思う」

この目標は聞こえだけは良かったのか、周りは手放しで喜んでくれた。新しい目標が出来て良かった!と肯定してくれた。

 しかし1人だけ、肯定してはくれなかった。それは例の先輩だった。

 

 俺も先輩も忙しく、先輩と飲みに行くのはもうめちゃくちゃ久しぶりだ。ていうか冬だ。前に飲みに行ったのなんて、さらに前の時期の長袖着てた頃なので、春だ。凄く久しぶりに先輩に会う為緊張してしまう。

「お待たせ!」

そう言って駅に現れた先輩は、またもや美しくなられていて目ん玉が飛び出た。こんな人に悩みを聞いてもらえるなんて、、この時期では1番幸せな出来事だった。

飲み始めると、結局全然悩みなどは相談することなく、思い出話や「あの人いまどうしてる」話に花が咲いた。先輩と楽しく話せる事が、自分にとっても一番のストレス解消になった。

帰り道でようやく、先輩の方からその話題を振ってきた。

「これから、仕事はどうするの?」

それは将来にとてつもない不安を抱えていた、当時の僕が一番相談したい内容だった。よりによってこんな帰り道で・・・と思ったが、どっちにしろカッコ悪いとこを見せたくなかったので、話さないつもりでいた。

でも聞かれたからには目標を伝えようと思った。

「職場にいる後輩や同僚の為、せめて誰かの為になれるように、これから頑張りますよ」

「そんなのダメだよ」

「えっ!!?」

 即答された返事に思わず驚愕してしまった。てっきり「それはいい事だね!」と喜ばれると思っていたからだ。

 

先輩は首を横に振りながら、こう続けた。

「誰かの為に頑張るにはね、まず自分が大丈夫じゃなきゃいけないんだよ。だから今は自分の為に頑張ってみて!とにかく、今は自分を大事にして。」

先輩の言う事はごもっともだった。今でもそう思う。

しかし、この時の僕は、もう既に自分の為に充分頑張って、力の無さを痛感した後だった。

「いえ.......もう自分の為になんて頑張れません。考えられないです」

そう反論した。思わず僕は、目を逸らした。

先輩は「そう・・・」とだけ言って、俯いた。

ため息よりも小さい「無理しないでね」という声が、冬の寒空の中に吸い込まれていった。

 

 

 それからの僕は、あんな風に反論をした癖に、事ある毎に先輩の言葉を思い出すようになっていた。

 

後輩に「僕がやっておくから大丈夫」と言った時。

上司に「自分のことは全く気にしなくて大丈夫です」と言った時。

 

先輩の「誰かの為に頑張るには、自分が大丈夫じゃなきゃいけない」という言葉が、心に響き続けた。

まるで、風が吹いた時に鳴る風鈴のようだった。

それはお寺の鐘のような、強く打ち付けるようなインパクトのある言葉では無かった。

 ただ、心の中でよくないとは思いながら、自分で自分を追い込んでいたあの時、何度も、何度も、その言葉が風鈴のように響いた。

 

 仕事をしている最中、新しい職場で先輩と同じような仕事をするようになった同期の姿が見える。新しい事に挑戦する同期の姿が、何だかとてもキラキラしているように見えた。

自分はあんな風にはなれないな、とため息をつくと、またあの言葉が風鈴のように響いた。仕事をするデスクの上に涙が落ちそうになる。遠のく先輩や同期の背中を感じる度に、僕の心は不安でぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

「おい、お前が今いるところってスキー場あるよな?スノボやろうぜ」

会社の同期から急に連絡が来た。

もうステップアップして新しい職場に行った同期だ。今は全然違う仕事をしている。

自分はというと、雪深い県内の最果てみたいなところに異動になっていた。巡り巡って全部が悪い方向に行っている感じしかしなかった。

というか、今同期が働いてる所の近くにもスキー場などあるはずである。わざわざ辺境に来る必要は無い。

「そっちにスキー場あるじゃん?僕が行くよ」
「お前がいなきゃ行かねーような所だろうが!だから俺達が行くぞ!!」

理由になっていないが、押し切られた。3人して現れた同期達は、もう来るだけで完全に疲れていた。辺境に無理して来ようとするからである。

「スノボやったこと無いんだけど。あるのか?」
「1回だけな」

スノボ経験者2人×ほぼ未経験者2人でスキー場に来た。

経験者2人が、丁寧に"木の葉"のやり方から教えてくれた。

久しぶりに友達と遊んだ気がした。辺境にまで来て、自分は完全に塞ぎ込んで、勝手に病んでいただけだったのかもしれない。

 

「正直言うと、寂しくしてっかなと思って来たんだ。こんな遠いとこに帰ろうとする道中なんて、めちゃくちゃ憂鬱だろ?だから最初っからここで集まった」

別に俺なんかに気使わなくたって・・・と言ったが「どうしようも無い奴らだけど、お前の同期だぜ」と返ってきた。

友達だからだろうか。その言葉だけで大切にされていると感じた。

その他にも「お前はとにかく幸せになれ・・・」と抽象的に沢山励まされた。もう分かったから!と突っぱねたが、本当は凄く心に染みた。

まだ暖房の効いてない朝にコーンスープを飲んだ時のように、雪山でも不思議とじんわり暖かかった。

 


半年ほど過ぎ、梅雨の時期がまた訪れた。
先輩の言葉が風鈴のように、心の中でずっと響き続けていた僕は、流石にステップアップから目を背けることは出来なかった。

これは誰かの為なんかじゃなく、嫌いな、本当に大嫌いな自分の為のことだった。

でもこのまま何も頑張ろうとしなければ、前に進もうとしなければ、これからも自分を好きになる事は無いだろうと思った。上司との面接でステップアップを希望した僕は、嘘のようにあっさりと希望が通った。

え?????これまでの一年は???????

悩みまくった末のあっさり感だった。

ステップアップと言っても、遅刻とか悪い事をした同期以外は皆普通に異動していたので、まあ別に普通なのである。僕が異常だった。

後で聞いた事だが、目の病気がある為、色々と相談が必要だったらしい。言えよ。そんなんで一年も待たせるんかい。

という感じで、自分の会社のおかしさを改めて思い知らされただけだった。絶対転職したいところだ。

 

それはともかく、お世話になった人達に、一応異動が決まったと報告した。

そんなに?と思うくらい、色んな人が喜んでくれた、同期も後輩も上司も、中には泣いてくれた上司までいた。

「本当に良かったねえ」と言いながら電話口で泣かれた時は、別に特別な事じゃないですよ・・・とたしなめつつも、自分までもらい泣きしそうになってしまった。

報告を続けていく度、感謝の気持ちは強くなっていく。

そうだ、先輩にも報告しなきゃ!さすがに泣きはしないだろうけど、きっと喜んでくれるはずだ。ようやく良い報告が出来ると、堪らなく嬉しかった。


先輩は、この会社を辞めていた。 

 

僕はそれを他の人に報告する最中に、噂程度に聞いただけだった。

きっと、何よりも自分の為に新たなスタートを切ったのだろう。

こうして僕は、既に憧れの人がいない職場に異動することになった。

 


「一期一会」という言葉があるが、これは茶道に由来する日本固有のことわざだ。人との出会いは一生に一度、その出会いによって自分の人生は大きく変わるかもしれない。

励ましてくれた同期達も、泣いてくれた上司も、そして先輩も、色々な一期一会があって、その価値観を深めて来たはずだ。

僕も色んな人達との出会いが自分の価値観を深めたし、また他の誰かの価値観が深まった理由が、自分との出会いがキッカケであったならば、こんなに嬉しいことはないと思っている。

たまに、誰かの口から自分の心にいつまでも響き続ける言葉を聞く事が誰でもあると思う。

それはきっと、本を何十冊何百冊読んでも見つけられない、その時の自分にとって適切な言葉であるに違いない。

そして、本当の自分に気づかせてくれるのは、その時、自分を本気で想ってくれている人だけだ。

 


神社に座り込んで物思いにふけるなど、完全に不審者のそれであった。

先輩とは、もう連絡を取っていない。一期一会とは案外そういうものだろう。というかよくよく考えたら、半年以上も連絡がまちまちであれば、疎遠になるのは当たり前の話だった。

一年自分の異動が遅れなかったら、もっと沢山連絡して誘っていれば・・・そんなのは全てたらればの話だ。

もしかしたら、同じ職場になってさらに仲良くなったかもしれないし、仲が悪くなったかもしれないのだから。

ただし、実在した過去は、良くも悪くも変わることは無い。

僕は最初、先輩が「自分の好きな人以外とは話したくない」と言っていた時、えぇ・・・と思ってちょっと引いたし、読んだ人もえぇ・・・と思った人は多いのではと思う。

けれどもそんな言葉も、"その人らしさ"が出ていて、今では結構好きだったりする。

テプラで米粒みたいな名札を作った時、電車で別れ際いつも通りだった時、帰り道ため息よりも小さな声を聞いた時・・・その全ての瞬間が、何だかよりキラキラしたものに感じられる、そんな言葉だと僕は思っている。

 

いつの間にか、セミの鳴き声はしなくなっていた。

セミも、自分の為に新たな場所へ飛び立ったことを祈るばかりである。夏はまだこれからなのだから。

そういえば、神社に来て何も願ったり祈ったりせずに居るのもまたおかしな話である。

せっかくだから何か一つ願い事でもしておこう。

結局のところ、自分のことは自分で何とかすればいいのだ。自分の周りの人の事は、自分の力じゃどうしようも無い場合がほとんどである。

自分の事よりも、自分の周りの人について願っておこう。

そう思い、お賽銭箱に10円を投げる。

2礼2拍手をし、願いを込めた。

 

「僕の周りの人達が、どうかこれからも健康で幸せに生きられますように」

 

風なんか吹いていないのに、また風鈴の音が聞こえた気がした。