4月7日 20時14分 妹から電話がかかってきた。
妹「もしもし」
僕「はいはい、どうした?」
妹「あのね……」
僕「うん」
妹「………」
僕「………」
妹「………」
僕「……あ〜、わかったよ。大丈夫だから。」
電話口からは鼻をすする音が聞こえ、息を呑むような、言葉につまるような雰囲気が感じられた。
僕「親父にも伝えとくわ」
妹「うん……」
僕「まあなんと言うか……良かったな、最期を看取る事が出来て」
ばあちゃんが今入院している病院から転院するという事で、妹と母親はばあちゃんのいる病院に、転院の手続きやら荷物整理やらをしに行っていた。
容態が急変したのは、ちょうどそのタイミングだった。
妹からは「このままだと明日の朝には息を引き取るかもしれないらしい」という連絡を少し前に受けていた。だからすぐにわかった。
ばあちゃんは、あともう少しで、6月で90歳になるところだったが、89歳でこの世を去った。
妹は最期に立ち会い、その瞬間も見届けていた。僕に電話するまでは泣かなかったが、何も知らない僕に「ばあちゃんが亡くなった」という事を伝えようとした瞬間、あぁ本当に亡くなったんだという現実を感じて、電話口で急に涙が溢れてしまったという。
うちのばあちゃんは佐渡島の生まれだ。
89歳なので、普通に第二次世界大戦もリアルタイムで経験しているし、その記憶もある。
「金山に労働者として連れて行かれる人の中に、手首を縄で縛られて、日本語じゃない言語を話している人達がいた」とか、それヤバくね?と思うような話をしてたりもした。
玉音放送ももちろん聞いている。日本が戦争に敗ける事が本当に信じられなかったと語っていた。
そして、僕の妹はそれはもう超がつくほどのおばあちゃん子だった。
僕は5歳まで親の転勤で青森にいて、両親が働いている間は友達の親に預けられていた。
実家のある新潟へ転勤が決まり、まだ産まれたばかりの妹のことは、共働きの両親の代わりに母方のじいちゃんとばあちゃんが面倒を見ると言ってくれた。
父方のじいちゃんは既に亡くなっていて(何なら転勤のきっかけになった)、父方のばあちゃんは普通にまだ農家として就労していたのもあり、僕らの面倒は見れなかった。
しかし、新潟に転勤してまもなく、母方のじいちゃんも亡くなってしまった。
だから妹が生まれてからずっと、ばあちゃんは妹の面倒を見ていた。
僕はその頃学校にも行っていたが、妹はばあちゃんにべったりで、幼稚園の送り迎えも、後に小学生になってからもべったりで、何より仲良しだった。
正直、妹の一番の友達はばあちゃんだったんじゃないかとも思う。
ばあちゃんは、僕にもだけど、すぐ「ようしたもんだ」と褒めてくれた。
ようしたもんだは佐渡弁で「よくやった!」みたいな意味だ。
テストでいい点取ったり、上手にあやとりが出来たり折り紙を上手にできたり、全部「おぉ〜ようしたようした」と妹を褒めていた印象がある。
妹はばあちゃんが大好きで、中学生以降も「今日はばあちゃんの家に泊まりたい!」と、近くのアパートに暮らしていたばあちゃんの所に一人で泊まりに行ったりしていた。
僕は最期の瞬間には病院にはいなかったけど、妹は最期の瞬間に立ち会った。
ずっと「ばあちゃん!わかる?」と声をかけ続けていたらしい。
その最期は、本当に"息を引き取る"という言葉が似合い、苦しむ様子もなく、呼吸だけが小さくなっていったらしい。ただ心拍の数値は下がっていき、そのまま0になったとの事だ。
病院から帰った後の妹は、茫然自失といった感じで、突然泣き出して、ぼーっとして、また泣き出すというような事を繰り返す状態だった。
「夢を見たんだ、誰かのお墓参りをする夢。そこには(母方の)死んだじいちゃんもいたのに、何故かばあちゃんだけいなかったから、ばあちゃんのお墓参りなんだってわかった。」
そんな夢を見たから亡くなっちゃったのかな……もうすぐ90歳だったのに、それまで生きていて欲しかった、と妹は言って、まだ静かに泣き出した。
何と声をかけたらいいかわからず、僕は背中を擦り続けることしか出来なかった。
ばあちゃんが妹にかけた言葉で印象的な言葉がある。
それは妹が学校に行きたくないとぐずった時だ。
「出かける時は雨が降っていて、出かけたくないなぁと思っていても、帰る頃には晴れてる。人の気持ちもそんなもん。朝出かける時には嫌でも、帰る頃には嫌じゃなくなってる。だから行ってみなさい。」
それを妹は今でも覚えているらしい。何なら僕も覚えている。ばあちゃんは僕らに大切な考え方を残してくれた。まあ「朝ドラの受け売りだけどね」って言ってたけど。
そんなばあちゃんが、僕に生前本当に最後に残した言葉は
「生きるのはていそ(大変)らっちゃ」
だった。
生きるのは、本当に大変だ。
本当に大変なんだ。
先日、僕の友達にも癌が見つかって、ステージによっては半年以内に亡くなるかもしれないというような話があった。
友達には家庭があって、子どももいた。僕なんかは同い年でも失敗ばかりでくだらない人生を生きてると思っていたし、僕の命を代わりにくれてやりたい気分でいた。
だけど、そんな気分でいたちょうど次の日、職場で僕の話をしている上司たちの会話が聞こえた。
「あいつ、俺の顔見るだけで笑うんだよな。注意した方がいいぞ。」「いや〜無理ですね、私さささんの事大好きなんで。」「そうか、いや実は俺も大好きなんだけどよ。」
そんな会話が本当に聞こえてきて、思わずその場を離れ、職場の中でも誰が使うんだよここみたいな場所にあるトイレの個室にこもって頭を抱えた。別にうんことか出ないのに。
何なら泣きそうにもなって、どんな顔したらいいか分からなくなっていた。
人が一人いなくなることは、ただ人が一人いなくなるだけのことじゃない。
自分も、自分がいなくなったら悲しむ家族や、友人や、同僚や、インターネットの奥の人達が、数え切れないほど思い浮かんでしまう。
僕もいなくなることは出来ないし、誰かの代わりになることは出来ない。そんな事を思った。
ただ、結果的に友人の癌は早期発見だったようで、一命は取り留め、今も元気にしている。本当に良かった。
生きるのは本当に大変だ。
優秀だったら、周りから期待という名のプレッシャーをかけられてしまう。
物覚えが人より悪かったりすると、自分は普通の事も普通に出来ないのかと自分を責めて苦しんでしまう。
失敗したり、喧嘩したり、努力が報われなかったり、行きたくない予定があったり、未来に漠然とした不安があったり、自分は仲良いと思っているけど相手からは嫌われてるのかなと疑ったりしてしまう。
それでも、励まし合える優しい友達がいて、守りたいと思える温かい家族がいてくれたから、僕らは明日からも生きていこうと思えるのだろう。
それはばあちゃんの生きる時代よりも、ずっとずっと前から同じであると思う。
そして、人が一人いなくなる事は、ただ人が一人いなくなるだけの事じゃない。
色んな事を僕に、妹に、母親に、数え切れないくらいの人に与えてくれたばあちゃんが亡くなったのは本当に悲しいけれど、僕もこれからいなくなろうとしないで、色んな人に色んな事を与えていけるように、前を向いて生きていきたいと思う。
そう思いながら、明後日の葬式で僕はばあちゃんを見送ることにする。
でもまあ多分感謝しか浮かばないだろうな。忘れてしまわないように、一応ここにも今の思いを書くか。
最後らへんは入院しててずっと外に出られなかったけど、今は自由に外に出られているだろうか。
今、暖かくなってきて、一番桜が綺麗に咲いてるんだけど、見れたかな。
じいちゃんと一緒に僕らを見守っててね。
ありがとう、今まで生きていてくれて。
ようしたもんだ。