突然、今が2022年である事に驚く事がある。
自分が産まれたのが1993年と考えると・・・もうあんなに近かった気がする90年代は、少しずつ「30年前」の事になっているのだ。
僕はそれを「星のカービィ30thAnniversary」というのをTwitterで見て知った。カービィってもう30周年なの・・・!?僕と同じくらいに生まれたはずでは・・・。
ちょっと待て。僕も30thAnniversaryなのか。
まだ30年生きた訳では無いが、ここまでの人生は嬉しかったことも楽しかったことも、辛いことも挫けそうなことも本当に色々あった。
僕は一時期、色々あって仕事上僻地に飛ばされた事がある。その時は本当に辛く、「心が折れる音って本当に聞こえるんだ」と分かるくらいしんどかったのを覚えている。
しかし、知らない人ばかりの環境の中でも、折れて潰れそうな僕の心を支えてくれる人はいた。
それは2019年、3年前に当時30歳だった、職場のアルバイトの台湾人の兄貴だった。
台湾人の兄貴は、日本語がペラペラという訳では無いが、そこそこ話せる人だった。
初めましてと挨拶をし、自己紹介をし合った。何で日本にいるんですか?と聞いたらピッ!と手を前に出されて「敬語、難しいからやめよ」と言われた。
何なら日本語を学ぶ為に今は日本に留学?に来ているらしかった。30歳になってからそんな決断をするなんて・・・当時の僕とは真逆の、活気のある人だと感じた。
笑顔で「よろしく!」と言ってきて、握手をした。
その台湾人兄貴は昼飯にいつもミックスナッツを食っていた。ご飯とナッツではなくて、ナッツオンリーである。
ダイエット中?と聞いたら「やすいから」とか言っていた。スーパーに売られてるナッツとか全然高い気がするんだけど・・・腹持ちが良いということなのだろうか。
タッパーにナッツを詰めて、昼飯の時間に大事そうに食べる光景は異様だった。別に異文化を感じた訳でもなく、ちょっと怖かった。台湾ではナッツが主食であるとか、そういった話は聞いたことがない・・・人としてぶっ飛んでいるとしか思えないのだが。
「たべる?あなたも」
そう言ってタッパーを差し出してくる。
まあ悪い人では無いのかなと思った。
ある日、職場でナッツが暇そうにナッツを食べていた。
気がつくと僕はこの台湾人兄貴をナッツとか呼んでいたが、ナッツも別に気にしないでくれた。「ナッツばっか食ってるからナッツと呼ばれ始めたのかな」ぐらいに思っていてくれれば嬉しいが。
「なんか中国語おしえて」
僕はそう話しかけた。そうするとOK!と言い、メモ紙のようなものに何かを書き始めた。
何を書いていたかはよく覚えてないが、簡体字と繁体字があるよ、という事から教えてくれた。
簡潔にしか聞いていないが、中国大陸では簡体字、台湾では繁体字と覚えていれば良いらしい。
中国語のような言葉を話していて、難しい漢字を書き始めたら台湾人だ。まあ広東語とか、もっと細かい違いはあるのだとは思うけど。
何で台湾と北京(首都)では繁体字と簡体字で違うの?と聞いたら「あいつら頭バカだから」と言っていた。
口が悪いなと思った。
普通に知らなかったので面白かった。へー!そうなんだ!とか言ってしまった。
ナッツがさらにメモに走り書きしてくれた。メモには「幹你娘」と書かれていた。
「どういう意味か分かる?」
ナッツが聞いてきた。中国語は漢字を使うので、日本語と通じる部分が多々ある。文法が分かれば読めてしまったりもする。「手紙」の意味が中国語ではトイレットペーパーだったりと、違う場合もあるけど。
この「幹你娘」という言葉も、何かそれに通じる部分があるという事だろうか。
確か「我愛你」でウォーアイニー、「私はあなたを愛しています」という意味であるはずなので。"你"は"あなた"をさすのだろう。
「你娘」は、「あなたの娘」という事だろうか。
厄介なのは"幹"である。幹が何なのかどうしても分からない。
ギブアップし、意味は何?と聞いてみたら、ナッツは爽やかにこう答えた。
「f××k you」
口が悪いなと思った。
何なら、「娘」の部分は中国語だと母親と言う意味で、直訳すると「てめえの母親を犯すぞ」という意味らしかった。
中国や台湾では、自分の母親をどうこう言う事は侮辱であり、犯すなど最大の侮辱であるとの事だった。だからf××k youで大体合っているらしい。
ナッツは他にも「閉嘴(黙れ)」「吵死了(うるさい)」「你不要再説了(これ以上話すな)」等の中国語を丁寧に教えてくれた。全部大体同じ意味である。
あとは「小偷(泥棒)」「老頭(ジジイ)」「傻子(バカ)」等も教えてくれた。
正直、ナッツからは殆ど暴言しか教わらなかった。
ある日、ナッツが怒り気味に上司を指さし、コソコソと僕に何か言ってきた事があった。
中国語だと分からないし、かと言って英語で言われた言葉も何なのかよく分からなかった。最早上司までナッツが何を言っているのかを気にしていた。
翻訳アプリを起動し、中国語で話してもらうと、翻訳アプリが丁寧に日本語に訳し、音声を流してくれた。
『あの人は、アルツハイマー病ですか?』
本当に口の悪い奴である。
思わずバッ!とナッツの方を振り返る。彼はニコニコとしていた。上司の方も振り返る。上司はちょっと気まずそうに下を向いている。
どうしてくれんだ・・・!翻訳アプリを経由してまで暴言を伝えてしまったじゃないか。
確かに、何かちょっと「Alzheimers」と英語で言っている感じはあった。でも流石にアルツハイマーとは言ってないよな・・・違う意見を上司に伝えようとしているよな・・・と思っていたのに、まさかのアルツハイマー病で正解だった。
その場は「No!No Alzheimers」と言って場を収めたが、上司は何とも言えない顔をしていた。「海外の人から海外の言葉で悪口言われるの怖いよ・・・」と後で言っていた。印象深い出来事だった。僕は内心笑ってたけど。
ある日、ナッツは「おはようアル〜」と言って職場に来た。
これは僕がナッツに「中国系の人って日本人と顔一緒だから、語尾に『アル』ってつけると中国の人って分かりやすくて良いよ!」と教えたせいである。僕も大概だった。
それ以来、ナッツはちゃんと「おひるにジュース〜?ジュース飲むのは子どもアル!」とちゃんと語尾に付けてくれた。本気で言っているのか合わせてくれてるのかは分からないが、面白かったので黙っていた。
まだ仕事前で暇だったのか、ナッツが話しかけてきた。
「好きな日本語って何かある?」
僕からも日本語を教えたりしていたが、好きな日本語となるとまだ教えていなかった。
というか、いざ「好きな日本語は?」なんて言われると結構困る・・・暴言も良いかなと思ったけど流石にアレなので、悩みに悩んだ末、日本らしい言葉を教えることにした。
それは「泡沫(うたかた)」である。
うた‐かた【泡=沫】
《「うたがた」とも》1 水面に浮かぶ泡(あわ)。
2 はかなく消えやすいもののたとえ。
泡沫、特に2つ目の「儚く消えやすい」という意味が僕はとても好きだった。
昔の人が、水面に浮かんだあぶくが弾けて消えてゆく、その儚い様子に名前をつけたのである。思わずその感性を尊敬してしまう。
それと"うたかた"という言葉の響き、これがまたとても良い。日本語のなかでもからころとしていて、発してみて気持ちの良い言葉であるように思う。
だからこの言葉を教えようと思った。
しかし、教えるのはかなり難しかった。
泡沫(ほうまつ)と書いて、うたかたと読むのがまず意味がわからないのである。
しかも意味も「水のあぶくが消えるのが儚い」という、完全に日本人の感性である。ナッツ的には「どうして?」だったらしく、当たり前だけど、全く理解しては貰えなかった。
言葉の意味としては、もうそういうもんとして理解して貰った。
"うたかた"って言葉の響きは綺麗でしょ?と聞くと「それはそうアル」と頷いていた。
逆にナッツにも「好きな中国語ってあるの?」と一応聞いてみた。
口の悪いこの人の事だから、どうせまた新しい暴言を教えてくるだろう・・・と思った。
ナッツは少しうーん・・・と天井を見ながら考えた後、僕に向き直ってこう言った。
「ザイツェン」
ザイツェン・・・中国語で書くと再見、要するに「またね」という意味だ。
何で再見が好きなの・・・?と聞いてみた。
「中国語の別れの挨拶は、"再見"しかないアル。日本語はさようなら。英語はバイバイ。色々あるけど、別れる時に『また会える』と言うのは中国語ぐらいアルよ」
と言っていた。さらに言えば、中国語では「行ってきます」も再見・・・「また会える」と言うらしかった。
人に対しての前向きな別れの挨拶が、とても好きだとナッツは言っていた。
また暴言を教えられるかも、と身構えていたが、その言葉はよく職場を出るナッツから聞いていた言葉だった。
そして、その言葉が好きなナッツの事を、僕はとても前向きで、素敵な人だなと感じられた。
「まあ、嫌いな人にも再見って言うけど」
そう言ってナッツは笑っていた。
本当に口の悪い奴だな、とも改めて感じた。
結局、僕が職場をまた異動することになり、ナッツとは離れることになってしまった。
「故郷に帰れるアルね!おめでとうアル!」
その前にこの語尾を直した方が良いんだろうか・・・と思いもしたが、面白かったのでそのままにしておいた。
職場での最後の日、ナッツは僕に握手を求めてきた。
「ぜひ台湾にも遊びに来てね」
「あぁ、必ず行くよ」
そんな約束をした。口の悪い男は爽やかすぎる笑みを浮かべながら僕に言った。
「再見!」
その言葉は吹雪が止んだ後に射し込む太陽の光の様に、僕の気持ちを暖かくしてくれた。
僕もこれが一番好きな中国語かもしれない、そう思った。
結局、職場を離れるとナッツとは一度も会うことが無かった。
4月になってしばらくしてから、鳥取砂丘に行ったらしく、砂丘をスノボで下ってはしゃぐ動画が送られてきて、非常に困った。これ・・・怒られないか・・・?
ただ、一度疎遠になってしまうとなかなか連絡を取り合うことも無くなる。
その年の夏、急にナッツから連絡がきた。
「明日台湾に帰る!ありがとうございます🙇♀️」
「え、1回くらい日本にいるうちにまた会いたかったけど仕事や!」「それは残念・・・」というやり取りをした。
仕事しながらだったのでスマホを開けず、しばらくしてから「再見」と送って、同じように「再見」と返してくれて、今やもう3年が経とうとしている。結局それっきりになってしまった。
まるで"泡沫"のように、彼は日本からいなくなった。
"古池や 蛙飛び込む 水の音"
これはかの有名な松尾芭蕉の代表的な俳句である。
以前にも話した事があるが、これは日本人特有の感性を表している名句である。
おそらく大体の日本人がこの句を見ると、寂れた静かな古池に、一匹の蛙がポチャンと池に飛び込む音が響いている、そんな情景を思い浮かべるだろう。
しかし、これが中国語でも英語でも、訳されるとなるとそうはいかない。蛙は必ず複数形となって訳されてしまう。
要するに「古い池に蛙がバチャバチャ飛び込む音が聞こえてうるせー!」みたいな意味になってしまうのだ。情緒もへったくれもない。訳した人も、どこが素晴らしいのか疑問に思うだろう。
俳句には日本人特有の感性でしか享受できない表現も多いのである。
"泡沫"も例外ではない。
水のあぶくが水面で消える様子を"儚い"とはなかなか思わないだろう。ナッツに説明する時とても苦労したが、でも、何となくわかる気がしてしまうのだ。
同じように、色んな国に、色んな文化があって、出身国特有の感性で生きている人がいる。
恥ずかしながら、僕は海外に行ったことは無い。いつかいってみたいな、と本当に思う。
"井の中の蛙大海を知らず"
なんて言葉もあるが、この蛙とはまさに自分の事だ。
大海を知り、古池という井の中に今までとは異なる水の音を響かせながら舞い戻る・・・そんな旅をしてみたいものである。
どこに行くかとなれば、まずはやっぱり台湾だろう。
台湾には友達がいる。口が悪く、昼にはナッツばかり食っていた彼と再び会う約束をした。会った時、必ず伝えようと思った中国語を新しく覚えたのだ。
彼に会い、僕はきっと一言目にこれを言うだろう。
「又見面了!(また、会えましたね)」