笹団子の降る夜

読んだ漫画の感想を、自分勝手に書きます。

又見面了!

突然、今が2022年である事に驚く事がある。

自分が産まれたのが1993年と考えると・・・もうあんなに近かった気がする90年代は、少しずつ「30年前」の事になっているのだ。

僕はそれを「星のカービィ30thAnniversary」というのをTwitterで見て知った。カービィってもう30周年なの・・・!?僕と同じくらいに生まれたはずでは・・・。

 

ちょっと待て。僕も30thAnniversaryなのか。

 

まだ30年生きた訳では無いが、ここまでの人生は嬉しかったことも楽しかったことも、辛いことも挫けそうなことも本当に色々あった。

僕は一時期、色々あって仕事上僻地に飛ばされた事がある。その時は本当に辛く、「心が折れる音って本当に聞こえるんだ」と分かるくらいしんどかったのを覚えている。

しかし、知らない人ばかりの環境の中でも、折れて潰れそうな僕の心を支えてくれる人はいた。

それは2019年、3年前に当時30歳だった、職場のアルバイトの台湾人の兄貴だった。

 

台湾人の兄貴は、日本語がペラペラという訳では無いが、そこそこ話せる人だった。

初めましてと挨拶をし、自己紹介をし合った。何で日本にいるんですか?と聞いたらピッ!と手を前に出されて「敬語、難しいからやめよ」と言われた。

何なら日本語を学ぶ為に今は日本に留学?に来ているらしかった。30歳になってからそんな決断をするなんて・・・当時の僕とは真逆の、活気のある人だと感じた。

笑顔で「よろしく!」と言ってきて、握手をした。

 

その台湾人兄貴は昼飯にいつもミックスナッツを食っていた。ご飯とナッツではなくて、ナッツオンリーである。

ダイエット中?と聞いたら「やすいから」とか言っていた。スーパーに売られてるナッツとか全然高い気がするんだけど・・・腹持ちが良いということなのだろうか。

タッパーにナッツを詰めて、昼飯の時間に大事そうに食べる光景は異様だった。別に異文化を感じた訳でもなく、ちょっと怖かった。台湾ではナッツが主食であるとか、そういった話は聞いたことがない・・・人としてぶっ飛んでいるとしか思えないのだが。

「たべる?あなたも」

そう言ってタッパーを差し出してくる。

まあ悪い人では無いのかなと思った。 

 

ある日、職場でナッツが暇そうにナッツを食べていた。

気がつくと僕はこの台湾人兄貴をナッツとか呼んでいたが、ナッツも別に気にしないでくれた。「ナッツばっか食ってるからナッツと呼ばれ始めたのかな」ぐらいに思っていてくれれば嬉しいが。

「なんか中国語おしえて」

僕はそう話しかけた。そうするとOK!と言い、メモ紙のようなものに何かを書き始めた。

何を書いていたかはよく覚えてないが、簡体字繁体字があるよ、という事から教えてくれた。f:id:sasadangokko:20220127171701j:image

簡潔にしか聞いていないが、中国大陸では簡体字、台湾では繁体字と覚えていれば良いらしい。

中国語のような言葉を話していて、難しい漢字を書き始めたら台湾人だ。まあ広東語とか、もっと細かい違いはあるのだとは思うけど。

何で台湾と北京(首都)では繁体字簡体字で違うの?と聞いたら「あいつら頭バカだから」と言っていた。

口が悪いなと思った。

普通に知らなかったので面白かった。へー!そうなんだ!とか言ってしまった。

ナッツがさらにメモに走り書きしてくれた。メモには「幹你娘」と書かれていた。

「どういう意味か分かる?」

ナッツが聞いてきた。中国語は漢字を使うので、日本語と通じる部分が多々ある。文法が分かれば読めてしまったりもする。「手紙」の意味が中国語ではトイレットペーパーだったりと、違う場合もあるけど。

この「幹你娘」という言葉も、何かそれに通じる部分があるという事だろうか。

確か「我愛你」でウォーアイニー、「私はあなたを愛しています」という意味であるはずなので。"你"は"あなた"をさすのだろう。

「你娘」は、「あなたの娘」という事だろうか。

厄介なのは"幹"である。幹が何なのかどうしても分からない。

ギブアップし、意味は何?と聞いてみたら、ナッツは爽やかにこう答えた。

 

「f××k you」

 

口が悪いなと思った。

何なら、「娘」の部分は中国語だと母親と言う意味で、直訳すると「てめえの母親を犯すぞ」という意味らしかった。

中国や台湾では、自分の母親をどうこう言う事は侮辱であり、犯すなど最大の侮辱であるとの事だった。だからf××k youで大体合っているらしい。

ナッツは他にも「閉嘴(黙れ)」「吵死了(うるさい)」「你不要再説了(これ以上話すな)」等の中国語を丁寧に教えてくれた。全部大体同じ意味である。

あとは「小偷(泥棒)」「老頭(ジジイ)」「傻子(バカ)」等も教えてくれた。

正直、ナッツからは殆ど暴言しか教わらなかった。

 

ある日、ナッツが怒り気味に上司を指さし、コソコソと僕に何か言ってきた事があった。

中国語だと分からないし、かと言って英語で言われた言葉も何なのかよく分からなかった。最早上司までナッツが何を言っているのかを気にしていた。

翻訳アプリを起動し、中国語で話してもらうと、翻訳アプリが丁寧に日本語に訳し、音声を流してくれた。

 

『あの人は、アルツハイマー病ですか?』

 

本当に口の悪い奴である。

思わずバッ!とナッツの方を振り返る。彼はニコニコとしていた。上司の方も振り返る。上司はちょっと気まずそうに下を向いている。

どうしてくれんだ・・・!翻訳アプリを経由してまで暴言を伝えてしまったじゃないか。

確かに、何かちょっと「Alzheimers」と英語で言っている感じはあった。でも流石にアルツハイマーとは言ってないよな・・・違う意見を上司に伝えようとしているよな・・・と思っていたのに、まさかのアルツハイマー病で正解だった。

その場は「No!No Alzheimers」と言って場を収めたが、上司は何とも言えない顔をしていた。「海外の人から海外の言葉で悪口言われるの怖いよ・・・」と後で言っていた。印象深い出来事だった。僕は内心笑ってたけど。

 

ある日、ナッツは「おはようアル〜」と言って職場に来た。

これは僕がナッツに「中国系の人って日本人と顔一緒だから、語尾に『アル』ってつけると中国の人って分かりやすくて良いよ!」と教えたせいである。僕も大概だった。

それ以来、ナッツはちゃんと「おひるにジュース〜?ジュース飲むのは子どもアル!」とちゃんと語尾に付けてくれた。本気で言っているのか合わせてくれてるのかは分からないが、面白かったので黙っていた。

まだ仕事前で暇だったのか、ナッツが話しかけてきた。

「好きな日本語って何かある?」

僕からも日本語を教えたりしていたが、好きな日本語となるとまだ教えていなかった。

というか、いざ「好きな日本語は?」なんて言われると結構困る・・・暴言も良いかなと思ったけど流石にアレなので、悩みに悩んだ末、日本らしい言葉を教えることにした。

それは「泡沫(うたかた)」である。

うた‐かた【泡=沫】
《「うたがた」とも》

1 水面に浮かぶ泡(あわ)。

2 はかなく消えやすいもののたとえ。

泡沫、特に2つ目の「儚く消えやすい」という意味が僕はとても好きだった。

昔の人が、水面に浮かんだあぶくが弾けて消えてゆく、その儚い様子に名前をつけたのである。思わずその感性を尊敬してしまう。

それと"うたかた"という言葉の響き、これがまたとても良い。日本語のなかでもからころとしていて、発してみて気持ちの良い言葉であるように思う。

だからこの言葉を教えようと思った。

しかし、教えるのはかなり難しかった。

泡沫(ほうまつ)と書いて、うたかたと読むのがまず意味がわからないのである。

しかも意味も「水のあぶくが消えるのが儚い」という、完全に日本人の感性である。ナッツ的には「どうして?」だったらしく、当たり前だけど、全く理解しては貰えなかった。

言葉の意味としては、もうそういうもんとして理解して貰った。

"うたかた"って言葉の響きは綺麗でしょ?と聞くと「それはそうアル」と頷いていた。

 

逆にナッツにも「好きな中国語ってあるの?」と一応聞いてみた。

口の悪いこの人の事だから、どうせまた新しい暴言を教えてくるだろう・・・と思った。

ナッツは少しうーん・・・と天井を見ながら考えた後、僕に向き直ってこう言った。

「ザイツェン」

ザイツェン・・・中国語で書くと再見、要するに「またね」という意味だ。

何で再見が好きなの・・・?と聞いてみた。

「中国語の別れの挨拶は、"再見"しかないアル。日本語はさようなら。英語はバイバイ。色々あるけど、別れる時に『また会える』と言うのは中国語ぐらいアルよ」

と言っていた。さらに言えば、中国語では「行ってきます」も再見・・・「また会える」と言うらしかった。

人に対しての前向きな別れの挨拶が、とても好きだとナッツは言っていた。

また暴言を教えられるかも、と身構えていたが、その言葉はよく職場を出るナッツから聞いていた言葉だった。

そして、その言葉が好きなナッツの事を、僕はとても前向きで、素敵な人だなと感じられた。

「まあ、嫌いな人にも再見って言うけど」

そう言ってナッツは笑っていた。

本当に口の悪い奴だな、とも改めて感じた。

 

結局、僕が職場をまた異動することになり、ナッツとは離れることになってしまった。

「故郷に帰れるアルね!おめでとうアル!」

その前にこの語尾を直した方が良いんだろうか・・・と思いもしたが、面白かったのでそのままにしておいた。

職場での最後の日、ナッツは僕に握手を求めてきた。

「ぜひ台湾にも遊びに来てね」

「あぁ、必ず行くよ」

そんな約束をした。口の悪い男は爽やかすぎる笑みを浮かべながら僕に言った。

 

「再見!」

 

その言葉は吹雪が止んだ後に射し込む太陽の光の様に、僕の気持ちを暖かくしてくれた。

僕もこれが一番好きな中国語かもしれない、そう思った。

 

結局、職場を離れるとナッツとは一度も会うことが無かった。

4月になってしばらくしてから、鳥取砂丘に行ったらしく、砂丘をスノボで下ってはしゃぐ動画が送られてきて、非常に困った。これ・・・怒られないか・・・?

ただ、一度疎遠になってしまうとなかなか連絡を取り合うことも無くなる。

その年の夏、急にナッツから連絡がきた。

「明日台湾に帰る!ありがとうございます🙇‍♀️」

「え、1回くらい日本にいるうちにまた会いたかったけど仕事や!」「それは残念・・・」というやり取りをした。

仕事しながらだったのでスマホを開けず、しばらくしてから「再見」と送って、同じように「再見」と返してくれて、今やもう3年が経とうとしている。結局それっきりになってしまった。

まるで"泡沫"のように、彼は日本からいなくなった。

 

"古池や 蛙飛び込む 水の音"

これはかの有名な松尾芭蕉の代表的な俳句である。

以前にも話した事があるが、これは日本人特有の感性を表している名句である。

おそらく大体の日本人がこの句を見ると、寂れた静かな古池に、一匹の蛙がポチャンと池に飛び込む音が響いている、そんな情景を思い浮かべるだろう。

しかし、これが中国語でも英語でも、訳されるとなるとそうはいかない。蛙は必ず複数形となって訳されてしまう。

要するに「古い池に蛙がバチャバチャ飛び込む音が聞こえてうるせー!」みたいな意味になってしまうのだ。情緒もへったくれもない。訳した人も、どこが素晴らしいのか疑問に思うだろう。

俳句には日本人特有の感性でしか享受できない表現も多いのである。

"泡沫"も例外ではない。

水のあぶくが水面で消える様子を"儚い"とはなかなか思わないだろう。ナッツに説明する時とても苦労したが、でも、何となくわかる気がしてしまうのだ。

同じように、色んな国に、色んな文化があって、出身国特有の感性で生きている人がいる。

恥ずかしながら、僕は海外に行ったことは無い。いつかいってみたいな、と本当に思う。

"井の中の蛙大海を知らず"

なんて言葉もあるが、この蛙とはまさに自分の事だ。

大海を知り、古池という井の中に今までとは異なる水の音を響かせながら舞い戻る・・・そんな旅をしてみたいものである。

どこに行くかとなれば、まずはやっぱり台湾だろう。

台湾には友達がいる。口が悪く、昼にはナッツばかり食っていた彼と再び会う約束をした。会った時、必ず伝えようと思った中国語を新しく覚えたのだ。

彼に会い、僕はきっと一言目にこれを言うだろう。

 

「又見面了!(また、会えましたね)」

愛おしくってごめんね

外を見ると、まさに雪やこんこと言うように静かに雪が降り続いていた。

昨日は風もあり、まるで"デイアフタートゥモロー"みたいな暴風雪になってしまっていたが、今日は風がなく、どちらかと言うと"冬のソナタ"が似合うような美しい雪が降り積もっている。僕は実家の部屋で半纏を着つつ、暖房を付けた部屋でぬくとまりながら、綺麗な冬の外の様子を眺めていた。

 

新しくPCを購入した。

もう前のPCも6年ほど使ったので、流石にPC自体がフリーズしたり、動きが悪くなってきた。フォロワーに相談して、もっと良いものというか、ちゃんとしたやつを買った。おかげで全て爆速である。本当にBIG KANSHAだ。

今は前のPCから、必要なデータを移そうと作業をしているところだ。

「ん・・・?何だこれ?」

その途中、気になるデータを見つけた。Musicフォルダ内に「ハロプロ」と名前のついたフォルダがあった。

 

ハロプロとは、HELLO! PROJECTの略称である。モーニング娘。'22や、ANGERME、Juice=Juice、つばきファクトリー、BEYOOOOONDSなど、様々なアイドルグループを有している。f:id:sasadangokko:20220107001350j:image

モーニング娘。"22

 

僕が大好きな職場の元先輩は大のハロプロ好きだった。これはその人が半ば強引に押し付けてきたUSBに入っていた音楽ファイルで、ありがたく拝借したものだった。

職場の元先輩は、それはもう凛として綺麗で、まあもはやそれはどうでも良いくらい魅力的な人だった。尊敬していた。と同時に「エレブーの進化わたしまだ覚えてるよ!エレキッドでしょ?凄くない!?わたしの記憶力!!」と、間違った内容で自分を褒めるユーモアのある人物でもあった(正解はエレキブル)。

 

(その先輩については詳しくはこちらのブログにて。長くて申し訳ない。。)

https://sasadangokko.hatenablog.com/entry/2021/07/28/195601

 

ちなみに先輩はモー娘。の中で言えば、去年の12月13日に卒業した佐藤優樹さん、いわゆる"まーちゃん"推しだったし、さらに言えばルパンレンジャーもやっていた卒業生の工藤遥さんの推しであり、何なら同期仲良しのこの2人のカップリング"まーどぅー"推しであった。まーちゃんは、ライブ映像を見る時「今の子誰?」と誰もが気になってしまうくらい、それはもうカッコいい存在だ。僕もそう思ってしまう。見たら一発でわかるくらいカッコいいのである。

モーニング娘。'19『I surrender 愛されど愛』(Morning Musume。'19[I surrender. It’s only love but it is love.]) (MV) - YouTube

一番キマッてる感があるのが佐藤優樹さんである。

 

また僕はと言えば、妹もハロプロが好きだったので、その流れで先輩に話を持ちかけたところ、熱心な勧誘にあてられ、無事先程のUSBを押し付けられた。「絶対に聴けよ・・・!!!」と言う先輩のオーラはかつて見た事がない程に禍々しく、これは聴かないと殺されるなと思った。

ドルオタのなかでもハロプロに男性は少ないらしいが、僕もまあそこそこ知識はあるし好きな歌や推しもいるぐらいのファンにはなれた。ちなみに僕はかえでぃー(加賀楓さん)推しである。f:id:sasadangokko:20220112144435j:image

かえでぃーこと、加賀楓さん

ていうか、かえでぃーが書いてるブログのタイトルと中身が違い過ぎるのが面白すぎる。「わたしのSwitchどこいった〜」ってタイトルで何故Switchに一切触れないんだろう。触れてくれよ。

カレーパンは美味しい。 加賀楓 | モーニング娘。’22 13期・14期オフィシャルブログ Powered by Ameba

リンクは「カレーパンはおいしい」というタイトルで、カレーパンのカの字も出ないかえでぃー(加賀楓さん)のブログ。

 

妹はハロプロで言うとANGERMEやJuice=Juiceのファンなので、推しは段原瑠々さんらしい。モー娘。では森戸知沙希さんだ。

 

僕は懐かしいなぁ・・・と思いながら、ハロプロのファイルを開く。今はなき"こぶしファクトリー"や、"カントリーガールズ"等も含めて、ちゃんとファイルがアーティスト毎に分けられている。なんて親切なんだ。

と思ったが・・・おや?と、少し違和感を感じる部分があった。

1曲だけ、どのファイルにも入らず外に飛び出ている。アーティスト毎に分けられたファイルが並ぶその下に一つだけ音楽ファイルが並んでいた。

カントリーガールズの「愛おしくってごめんね」だった。

どうしてこの1曲だけ・・・?と今更疑問に感じた。何せ"カントリーガールズ"のファイルはちゃんとあるのである。分類的にはそのファイルに入っているべきなのだ。

これはたまたまなのか、故意になのか、それとも失敗してなのか・・・。

一応その曲を聴いてみた。既に聴き馴染みのある歌だ、改めて歌詞を聴いて、何となく分かってしまった事がある。

多分、先輩は故意的にこの歌を別に置いた。

 

前述のブログでも書いたが、僕は先輩から助けられた事がある。仕事で大変な失敗をした時だ。当時は全然仲良くもなく、こんな先輩と僕が話せるとは思えんなぁ〜と思っていたのだが、先輩は仲の悪い同期の人にわざわざ僕の連絡先を聞き、LINEで励ましてくれたのだ。

この後、仲良くなった時に「何であの時、あそこまでして励ましてくれたんですか?」と聞いた。先輩はうーん…とちょっと考えるような仕草を見せた後、ふふっといたずらっぽく笑いながら「教えな〜〜い」とか言ってきた。当時は普通に「何なんだ、こいつ」とか思った。

このLINEの一件は、先輩のこと偏見で見てたなぁと、凄く反省し、先輩とちゃんと話すようになった出来事だった。

ハロプロのUSBを押し付けられた時はもうだいぶ仲が良く、一緒に遊びに行ったりするくらいにはなっていた。誘って新潟から山形にまでひたすらメロン食いに行ったりした(後輩も一緒だったけど)。

 

とりあえずは、一つだけ不思議と外れていた音楽ファイル、カントリーガールズの"愛おしくってごめんね"の歌詞をご覧頂こう。

 

君のこと好きになってから
自分じゃないみたい・・・
うまくいえなくて、ごめんね


「今なにをしているの?」
メールは返さないよ
返事よりも 会えない日を数えてほしい

 

昨日借りて観た映画
昨日食べたものとか好きな音楽
全部教えてはあげない

 

女の子の秘密を
明かさないのが女の子
嘘をついてはいないの

それが、運命よ

 

ごめんね (私のこと)
もっと悩んで (素直じゃないね)
知りたくなるように

カワいくないやり方だけれど

 

ごめんね (不器用なとこ)
中途半端も (魅力のうちって)
愛おしくて忘れられないでしょ


ゆるしてよ 愛ゆえに

ごめんなさいね

 

まあぶっちゃけ・・・ともすれば"性格の悪りー女"と思われてしまうかもしれないが、この歌詞の女の子は何というか、完全に先輩だった。

先輩のこのめんどくささは、多分仲良くなって受け入れられるようになってからでないと、あんまり印象が良くないように思える。

ひとつひとつ紐解いてみよう。

 

君のこと好きになってから
自分じゃないみたい・・・
うまくいえなくて、ごめんね

この辺りは正直・・・僕の事が好きだったとはあまり思えないので、省略させてもらう。ただ先輩は素直では無かったのは確実だった。

 

「今なにをしているの?」
メールは返さないよ
返事よりも 会えない日を数えてほしい

この辺りに関しては、紛れもなく先輩そのものである。先輩とのLINEは大体先輩起点で始まった。「煎餅の自販機初めて見た!買っちゃった!!」と写真付きで送られてきた。僕のLINEのメッセージ欄はチラシの裏だと思われていた可能性がある。

かといって、僕も先輩にLINEをしなかった訳では無い。先輩にLINEしても、全然返してくれないのである。既読スルーは当たり前みたいな人で、翌日に普通に返してきたりする。こっちはその間、何かヤべー内容送っちまったのかと不安になる。やきもきさせる天才だと思った。

 

昨日借りて観た映画
昨日食べたものとか好きな音楽
全部教えてはあげない

 

女の子の秘密を
明かさないのが女の子
嘘をついてはいないの

それが、運命よ

この辺りも完全に先輩である。ていうか普通に「昨日映画見た!」と言ってきたのに、何見たんですか?と聞いたら「教えない!」とか言われるのである。それは教えてくれたっていいだろ。

ただ、先輩の好きな食べ物は一部覚えている。チョコミント味のお菓子と、辛いものと、東南アジア系の料理だ。パクチーとかも好きだ。

一度先輩が職場で落ち込んでいた時に、かける言葉が見つからず、コンビニで「カントリーマアムチョコミント味(夏季限定)」を買ってきて、何も言わずに渡した事があった。背中に「ありがとう」と言われたので、今回だけですよ・・・と照れ隠しでフリーザみたいな話し方をした。先輩は相当嬉しかったらしく、仲の良い上司やほかの先輩とかに話していた。何だそれ。僕に言えよ。

 

ごめんね (私のこと)
もっと悩んで (素直じゃないね)
知りたくなるように

カワいくないやり方だけれど

ある夏の日の夕方だった。ポケモンGOのサービスが始まった頃に、先輩と2人で地元を歩いていたら跨線橋に差し掛かった。

「ねぇ、ちょっと夕日を眺めようよ」

わたし何言ってんだろ、と笑いながら僕にそう提案してきた。僕はいいっすねえと言いながら、何でもねぇ跨線橋の上で2人で柵に腕を乗せつつ、沈むのが遅い夕日を眺めた。

「先輩って・・・何で僕なんかとその、仲良くしてくれるんですか?」

「え〜〜考えたことも無い笑 考えないでしょ」

「まあ確かに」

「別に居心地いい人と一緒にいるだけだよ。」

そんな会話をした。僕は居心地がいいらしかった。

先輩は、前に「綺麗とか可愛いとか言われるのが好きじゃない」なんて言っていた。そんな事ってあるのか・・・?と思った。

とはいえべらぼうに綺麗で、めちゃくちゃモテると自分で言っちゃうくらいであり、そして才色兼備と本当に完璧だった。

しかし、「顔がいいから調子乗ってる」等、「顔がいいから」を頭にわざわざつけて叩かれる事が多くあったようだ。嫉妬なのだろうか。

いい事もあったが、反面悪いことも沢山あったのだろうと思う。本当は色々と抱えてそうだったけれど、全然教えてはくれなかった。

 

ごめんね (不器用なとこ)
中途半端も (魅力のうちって)
愛おしくて忘れられないでしょ

「最初、僕は先輩みたいな人と仲良くなれるなんて思いませんでしたよ」

「は〜?酷くない??」

「いや違いますよ!」

「違うくない!!」

「違いますって!笑」

自分の言葉が足りなすぎて、先輩と「これは違います!」「違うくない!」と口論になることはよくあった。

先輩はふふっと微笑みながら、前にまた歩き出そうとしている。跨線橋の途中、少し前を歩く先輩の背中について行くように歩きながら僕は言った。

「先輩はもう高嶺の花って感じで、全てが完璧すぎて・・・でも何か、話すうちに段々僕と同じような人間なのかなって、思えてきて、僕はそれが何だか凄く、嬉しかった・・・です」

照れくさくて途中から何が言いたいのか分からなくなってしまったが、多分こんな事を言った。前を歩く先輩は振り返らずにそっかぁ〜なんて言っていた。

跨線橋の下り坂も終わり、歩道に差し掛かった時に先輩はようやく振り向いた。建物の隙間から差し込んだ夕日のせいなのか分からないが、顔が少し赤らんでいるように見えた。

 

「ちょろいんだぞ、わたしなんて」

 

僕の目をまっすぐ見ながらこう言った先輩は、少しふっと笑みを浮かべつつ、ふいっと前を向いて歩き出してしまった。

その光景のあまりの美しさに、僕はぼーっとしてしまい、立ち尽くしてしまった。

先輩がまた振り返って、足踏みしながら「ねえ!早く行くよ!」と怒っている。それを見てハッとし、僕も歩き出した。

「今の光景が美しすぎて・・・」

素直にそう言った。

「心がこもってないな〜」

「写真に撮っておきたかった・・・」

「あらそう」

先輩はもう、今のは何でもないかのようだった。

「写真は、写真の美しさに留まっちゃうでしょ。写真に残ってない事の方が、記憶の中でどんどん美化されて、良い思い出になるもんじゃない?」

さっきの「ちょろいんだぞ」がどういう意味だったのかは、やっぱり全然教えてくれなかった。

 

今、ここでPCのデータを移行している僕は、あの時の言葉や美しくなった記憶を思い出した。そして改めて同意する。愛おしくて忘れられない思い出であると。 

ゆるしてよ 愛ゆえに

ごめんなさいね

 


先輩は、周りの人に聞く感じだと友達がいなかった。

予想外だった。本人も「なんか嫌われたりしちゃってさ」と俯きながら言っていた。

先輩の同期の男性からも「お前あの人と仲良かったの!?よく仲良くなれたな〜・・・」とか感心される程だった。何かあんまり心を開かないらしかった。

顔がいいだけで勝手に調子乗ってるとか言われるのだから、人を信用するのにも時間がかかるのかもしれない。何だかんだ僕も話せるようになるまで一年以上はかかったのだ。

でも、話してみると本当に人間臭くて、「いや友達いないから・・・」という理由で僕を誘ってくる、見た目や普段の完璧すぎる印象とはうってかわって、不完全な女性がいた。

しかし、僕としては先輩の尊敬すべきところがそこにあった。先輩と僕は、年齢的な上下関係はあったが、人としては対等だった。

僕が先輩に悩みを相談する、頼る。これは普通の事であるが、先輩も僕に悩みを相談したり、頼ったりしてくれた。片方が一方的に悩みを打ち明けたり頼ったりする関係より、互いに悩みを打ち明け合い、頼り合う関係は、確かに居心地の良さを感じた。

先輩に「いつか僕も認められたいな〜」という発言をしたら怒られた事がある。

「認めるとか認めないとか、考えた事なんて一度もない!先輩後輩だけど、別にわたしは偉くなんかない」

そんな事を言っていた。今ではとてもよくわかる。

憧れの人には認められたいものだけれど、認められようと行動する事は、本来の目的とズレてしまうという難しさがある。

人をちゃんと理解し、且つ人に自分をちゃんと理解してもらう事こそが、どんな人と関わるにしても大切であると思う。

僕は先輩を、女性である以上に、人として尊敬していた。

 

雪やこんこどころか、雪はごうごうと降り続けている。外は辺り一面、足跡も着いていない白くて綺麗な世界が広がっていた。

もう疎遠になった先輩の事を思い出すと、今でも楽しい気持ちになるし、これからの自分もやっていけそうな気持ちになる。

先輩の女性である部分に惹かれていったのは、明らかにこのハロプロの楽曲を聴いた後だ。いじらしい先輩の感じが、物凄く可愛らしく感じてしまった。

加えて人としても尊敬していて、友達として一緒にいても楽しく、しかも頼り合うことが出来る最高の人だった。

だからこそ、今でも全然忘れられなくなっている。

 

しかし、過去は過去だ。今大切にすべきなのは、今の人間関係、そしてこれからの人間関係である。

目に焼き付いた美しい思い出は、胸のはじっこで、いつまでも大切にしていよう。

これからの自分が、あの先輩とはまたちょっと違うような、尊敬できる人に出会えたらとても嬉しく思う。

・・・そう言えば、先輩がこの「愛おしくってごめんね」だけを外していたのって、どういう意味なんだろう。たまたまだろうか、意図したものなのだろうか。

意図したものであるとしたら、歌詞の感じからすると・・・

いや、やっぱり考えるのはやめよう。先輩のことをある程度理解した今、考えても無駄である事がわかる。

きっと理由を聞いても、教えてはくれないのだから。

 

 

ここまで話を引っ張っておいて、今更何をと思うかもしれない。この稚拙な文章のまとまりとして、全くもって相応しいとは言い難い。しかし敢えて聴いてもらおう。いきなり×を出されるももちに驚くかもしれないが、これこそが僕の好きな先輩そのもの、「愛おしくってごめんね」である。

 

 

カントリー・ガールズ『愛おしくってごめんね』(Country Girls [I’m sorry for being so adorable])(Promotion Edit) - YouTube

財布を落としただけなのに。

財布が無い。

昨日まで持っていたはずの財布が無いのである。

しかも新潟から関西方面まで出てきて、昨日の夜まであった財布が無いのである。

頭が真っ白になりそうだった・・・ルビーサファイアで体力ギリギリのポケモン達とチャンピオンロードを抜けようとした時に、後ろからミツルが現れた時並に頭が真っ白になりかけた。

 

財布を無くして、僕がまず最初にしたことはこれだった。

 

Twitterを開く

 

もっと他にあったんじゃね????と思いたくなってしまうが、ツイ廃の自分にとってTwitterは呼吸なので仕方がなかった。

「財布が無い」と脊髄でツイートを投稿する。

するとすぐにこんなリプライがついた。


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しばらくカバンや服を漁ってみるが・・・やはりどこにも無いのだった。


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こういう時に冷静な人からの冷静な諭しが凄く自分落ち着かせてくれた。とりあえず、部屋の中をくまなく探しても無いようだった。最後の記憶は、昨夜フォロワーとらーめんを食べた後、財布を取り出した時だった。らーめん屋の外に出て、フォロワーの車に乗るまで財布は持っていた。この時、チャックのついたポケットから、完全にパーカーのサイドポケットに財布を適当に突っ込んだ記憶がある。こんなのどう考えても落としている。

ひとまず、あった所から順に記憶を辿ってみることにした。

 

らーめん屋を出た後、フォロワーの車に乗って摩耶山の上、「掬星台」から世界三大夜景を見た。


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めちゃくちゃに綺麗だった。

ここに来る道中は、車→途中からは歩きだった。正直な話、ここで落としていたとしたら完全に終わっている。山である。人通りが多いとは言え、夜景を見る時にこそ本領発揮する夜の山なんかで財布を落として、見つかる訳が無いのである。

 

またフォロワーの車に乗せてもらい、次はあの「涼宮ハルヒの憂鬱」の聖地となる高校の、登校する時の坂に連れて来てもらった。


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カメラアプリが上等なものでは無いので、何でもないただの坂の写真になってしまったが、何だか初めて来たはずなのに見たことあるような景色だった。

前にフォロワーがここに来た時、どう見ても高校生ではない人が歩いていたので話しかけてみたら「キョンの気持ちになってみたくて・・・」と言われたらしい。オタクの鑑みたいな人である。

それにしても、ここで財布を落としたとしても完全に終わっている。高校生の往来が激しい場所である。別に高校生を疑っている訳では無いが、中に入っていた2万5000円は無くなっていると考えるべきなのかもしれない。

 

その後はイルミネーション等を見たりもしたが、泊まるホテルまで送ってくれて、そこに着くまで車から降りる機会は無かった。

念の為ホテルの外もホテル内に落し物が無かったかも従業員に確認してみたが、無いようだった。

 

部屋に戻り、マジか・・・思いながら、Twitterを開くとリプライが来ていた。


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それぞれ来ていた意見を読むと、とても冷静になれて有難かった。ひとつひとつやるべき事を確認していく。

とりあえず昨日会ったフォロワーにDMを飛ばし、財布が無いか確認して貰うことにした。

 

ここで1つ問題が生じてくる。

帰りの乗車券は買ってあるが、関西から東京に帰るまでの特急券についてはまだ購入していなかった。

要するに今、「東京まで、乗車券として普通列車で行くことは出来ても、追加の特急券を購入しなければ新幹線で行くことが出来ない」という状態だった。東京から新潟に帰る分の特急券は買ってあった。

今から普通列車で東京まで行くと・・・7時間・・・!?これはとんでもない事である。何とかして今日中には帰りたい。

 

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こういうリプライも来たが、これは正直いうと、乗車証明書というのを駅の係員から貰い、一旦乗車して、東京で他の人に払ってもらう方法はある。それか、今いる駅で同時に東京駅で支払いをしてくれる人と駅係員を通じてやり取りし、無賃送還してもらう事も可能だ。

しかし、この日は平日・・・東京に友達はいるけれど、仕事やらの絡みで来れるのか、そもそも連絡が取れるかも微妙な所だった。


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前日会ったフォロワーからの返事も届いた。そりゃそうだ。なんてったって平日である。むしろ翌日仕事なのにおっさん2人で夜景を見てくれた事に感謝が止まらないし、財布まで失くして探してもらうのはかなりの申し訳無さがあった。

昨夜の時点でシートの上には無かったようなので、車で落としたとは正直考えづらい。だとしたら・・・例の山か、例の坂という事になる。財布に関しては完全に終わったと考えて良さそうだ。

 

他のフォロワーからのDMも届いていた。f:id:sasadangokko:20211217134931j:image

そうだ、まず警察に紛失届を出しに行かないと・・・!冷静になれてめちゃくちゃありがたい!

ここでいいのかな・・・?と不安に思いながら、駅の交番に立ち寄った。

「こんにちは!どうされましたか?」

歳の近そうな(ちょっと上くらい?)のイケメン警官に挨拶される。こんにちは〜!と元気よく返しつつ、この流れで「あの・・・財布失くしたんですけど・・・」とか言うのめちゃくちゃ恥ずかしいな、と思いながら同時に口にしてしまった。めちゃ恥ずかしかった。

「あらら・・・大変でしたね。どこで落としたか覚えていますか?とりあえず紛失届を書いてもらう形になりますが・・・」

そう案内され、呼ばれた婦警さんが紛失届を持ってきてくれた。クールな印象の黒縁眼鏡の婦警さんだった。というか、この交番は2人とも顔面偏差値が高過ぎて、ドラマの撮影なのかと思ってしまうレベルだった。

クールなお姉さんに住所が新潟である事を伝え「何で?」みたいな反応をされながら(何も言ってなかったけど)、紛失届を書いて提出する事が出来た。見つかったら連絡ください、と担当の警察署?の番号のメモを頂いて、手続きを完了した。これで警察署に財布が届けられた時も連絡が来る!本当に良かった。

 

警察に行く前に、「このままじゃ帰れね〜😢」というようなツイートをしていたら、早くも状況を打開するリプライが届いた。

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なるほど、その手もあったか・・・!と目からウロコだった。

今の新幹線予約は、購入した切符の受取コードをスクショし、受け取り手に送信すれば、そのコードを券売機で読み取る事で、受け取り手側は支払いをせずに切符を受け取ることが出来る。

ただし、JR東日本えきねっとJR東日本の駅の券売機のみ、JR東海のスマートEXはJR東海JR西日本の駅のみとなっている。

今いるのはJR西日本の駅なので、EX予約である必要がある。しかし、自分が住んでるのは東日本なので、そもそもスマートEXに登録している人が周りに少ない・・・!このフォロワーに頼むのが1番早いと思った。

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一応駅の係員に確認してみる。

河野太郎さんみたいな顔の駅の係員から、今の時点で手元にお金が無く、そのような方法で移動されるお客さまも複数回確認していますという回答を貰った。

ありがとう河野さん。今度はちゃんと総裁選で勝てるよう願ってます。

 

そしてf:id:sasadangokko:20211216180707j:imagef:id:sasadangokko:20211216180737j:image

 

財布を落として金が無いのに、特急券が手に入ってしまった・・・!

凄いことだなぁと本当に思う。しかもえきねっとやスマートEXでこの機能が追加されたのはつい最近の事らしい。こんな偶然ってあっていいのか。

とにかく、フォロワーには感謝しかなかった。これで新潟に帰ることが出来る・・・!

 

自分で財布を落としただけだが、有難いことに他のフォロワーからも心配の声が届いた。
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さすがにそんな・・・!もう帰れるだけでも十分なのだけれど・・・と思ったが、これから財布なしで暫く過ごす事を考えると、この金の無さは今だけでなく、一週間くらいを見据えると不安だ・・・。

まあ、一旦実家に帰ればお金は親から借りれるけど・・・とか色々考えたものの、思い切って少し借りようかと思い、お願いした。
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まさかLINE Payから20000円の送金が来るとは思っていなかった。

こんなにも優しい人達がTwitterにいたのか。Twitterやってて嫌になった事もあったけれど、今はやってて本当に良かったと思った。

必ず、2人にはお返しをしたい。

 

そして、ファンファンに行って麻婆豆腐を食ったのだが・・・写真はない。

・・・何ていうか、写真は撮ったつもりだったのだけれど、気が動転していたのか写真は残っておらず、運ばれてきた麻婆豆腐の前で一旦スマホを横に構えただけの謎の人になってしまった。f:id:sasadangokko:20211216181852j:image

フォロワーから借りたお金で食べたたこ焼きも、相当美味かった。本当に感謝だ。まあ後で20000円返さなきゃいけないんだけど。

 

さて、財布を失くしたとなると、現金はともかく、心配なのはカード類だ。

キャッシュカード×2、クレジットカード×2である・・・利用停止手続きと、再発行手続きをした方が良いだろう。何せ山で落とした可能性があるのだから。

キャッシュカード×2については、田舎の銀行であるからか速攻繋がって手続きを済ませる事が出来た。とりあえず僕の口座から金が不正に引き出される心配は無くなった。

困ったのはクレカの方だった。全然電話が繋がらないのである。しかも2つとも。

暫くしたら1つ目のクレカは連絡が取れ、停止&再発行の手続きが出来た。もう1つの方はやはり繋がらないので、諦めて一旦新幹線に乗り込み、東京を目指した。

 

東京を目指す前にも、東京に目指す間にも、フォロワーが励ましや、協力してくれる旨のリプライやDMをくれた。


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財布を落としただけなのに、こんなにも沢山の人に励まされ、協力してくれる旨を伝えられ、とても嬉しく思った。

東京に着いたら、まずはカード停止の連絡をしよう。そう思っていたらフォロワーがこういうものも届けてくれた。

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こんなにも、「あたたかいものを」と言いつつ既にこれ自体があたたかい事ってあっていいんだろうか。本当にBIG KANSHAだ。f:id:sasadangokko:20211220183506j:image

ありがたく頂きながら、カード会社に連絡をした。

ていうか「あたたかいものを」と言われてるのに、頭がおかしくなったのか普通に冷たいものを頼んでしまっていた。身体は普通に冷えた。

 

クレジットカードもキャッシュカードも全て停止の手続きが済み、新潟に帰る上越新幹線に乗り込んだ。

乗る予定だった時間の列車である2階建てのMaxとき号の運行は今年の9月30日で終了し、北陸新幹線と同じ新しい1階のみの"とき号"に既に置き変わっていた。

ここまで来れたのも、Twitterの全ての人のおかげだった。あとは既に持っていた東京から新潟までの乗車券と特急券で帰るだけ。

「ありがとう、ツイッターランド」

財布も無い癖に、僕は上越新幹線の新しい車両に足を踏み入れた。

 

そして・・・
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様々なTwitterの人の協力で、僕は新潟駅まで帰ることが出来た!

 

しかも良い事はこれだけじゃない。


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あの完全に終わったと思われていた財布が、フォロワーの車のシートの下から見つかった・・・!!!!

見つけて貰えたことにも感謝だし、Twitterでも感謝しつつ、心配かけた事をお詫びした。

それはそれで、色んな人が色んな反応をしてくれた。

 


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何か・・・本当に財布を落としただけなのに、とてつもない凄いことを成し遂げた人みたいな祝われ方をした。

申し訳ないと同時に、この件に関しては本当にBIG KANSHAが止まない。

今回のこの件は、これからTwitterで困っている人がいたら力になりたいと、強く思えた出来事だった。

 

 

 

これまでもう10年とか、Twitterをやっていて、嫌だなとか、面倒だなと思う事も沢山あった。

顔も知らない仲の良い人とちょっとしたことで突然関係が断ち切られたり、顔も知らない人から突然暴言のDMが届いたりもした。

今もTwitterのフォロー外では、芸能人やら有名人が、何かに失敗して、何か飛び抜けて目立つような事をやって、炎上したり、好き放題言われたりしている。

僕はこの"炎上エンタメ"のようなものが、本当に好きではなく、今までTwitterで触れたことも無い。

顔も知らない会ったことも無い人であるならば、人間はこんなにも心を失い、冷たい言葉や、暴言を放ってしまうのかと、本当に恐ろしかった。

でも、今回僕を助けてくれた、励ましてくれた多くの人達は、同じように殆どが顔も知らない、会ったこともない人達だ。それらは全て、あたたかくて、輝かしくて、かけがえのない大切なものであるように感じた。

もちろん、財布を落としたのは嫌な事ではあったが、今では大切な思い出になり、フォロワーと笑いながらその時の話をする事が出来る。

炎上の時ばかり話題になるイメージのTwitter・・・さらに言えばインターネットの、この世界の片隅には、会った事の無い人にも「本当に良かったねえ」と声をかけてくれるような、誰かを燃やすのではなく、誰かの心をあたためてくれるような、そんな人達も確かにいたと、この一件を通して皆に伝わったら嬉しいと思っている。

 

BIG KANSHAだ👳🙏👳🙏👳

 

 


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※ちなみに財布はフォロワーからちゃんと送られて手元に届き、警察署に連絡。財布を拾ってくれた人、新幹線特急券を買ってくれた人、ファンファンを食べる為に送金してくれた人に、お金+αをお返ししました。

 

 

 

僕の爺ちゃんのファミリーヒストリー

実家の近所には池のある公園があり、その池を囲う木々は申し分ないほど秋色に色づいていた。

「今年は人がいねぇな」

横にいた親父がそう言った。季節はもう秋、というか気温的にはもう冬で、パーカー1枚では心許ないのか、赤いセーターを来ている。紅葉より映えてんじゃねーか?ってほど濃い色の赤いセーターだ。

 

この日は、うちの爺ちゃんの誕生日だった。11月は、なんと婆ちゃんも、親父も、僕も11月が誕生日だ。

爺ちゃんは、今から25年前、60歳という若さでこの世を去った。僕はまだ3歳で、爺ちゃんの記憶はひとつだけしかなく、ほとんど無いに等しい。覚えているはずもないのである。

実家は花農家でもあるので、意外にも爺ちゃんは生け花がとても上手だった。遺影では紋付袴で硬派な見た目をしているけれど、花が好きだったらしい。

今は婆ちゃんが花を作っており、今年も菊を作っていた。秋に咲く色とりどりの菊は今年も実家の庭を彩っていた。

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爺ちゃんが生きてきた60年は、周りの人に聞く限り、とんでもなく濃い人生だったように思う。僕は隣にいる親父にその話を聞きながら、自分の爺ちゃんの人生を振り返ってみることにした。

 

 

爺ちゃんは、1936年の産まれだった。第二次世界大戦が始まる前であり、大ヒットしたあの鬼滅の刃の大正時代から、10年ほど後のことであった。

物心がついた頃、タイミングを合わせたように戦争が始まった。うちは農家だというのに国にお米を回収され、食べるものは全然無かったらしい。病気になっても医者に行けないほど貧乏で、病気になったら寝て、治るよう祈るしか無かったそうだ。

病院があって、医者がちゃんと診てくれる世の中ならば救われた命なのだろう。

戦争の最中、爺ちゃんの実の姉は病気でこの世を去った。まだ小五、10歳にもなろうという若さだ。

姉との死別後、今度は戦争に行ったお父さん(つまりひい爺ちゃん)がもう帰って来ないのかもと不安になり塞ぎ込んだらしい。

 

「何があっても必ず生きて帰ってくる」

 

と言っていたひい爺ちゃん(つまり爺ちゃんの父)は、戦争が終わると、ちゃんと帰ってきた。しかし右目を失っていた。

右目を失ったひい爺ちゃんの目については、僕も見た事があるけれど、眼球でない何かが打ち込まれたような見た目だった。普段はそれをタモリさんみたいに、サングラスで隠すようにしていた。ただ、まだ子どもだった爺ちゃんは、既に死別したと思われた家族が帰ってきた事は堪らなく嬉しかったようだ。

 

ひい爺ちゃんが帰ってくるまでに、少しずつ爺ちゃんの心の扉を開けてくれた人がもう1人いた。同じ集落に住む幼馴染の同い年の女の子だった。セッちゃんと言った(らしい)。

同じ集落で、同い年で、頭が良く、とても気が合ったそうだ。

ひい婆ちゃん(爺ちゃんの母)は、変な宗教にガチでハマっていて全くアテにならなかったので、そんな中で、姉ではないが頼りになる女の子がいつもそばにいてくれたのはとても有難いことだった。

小学校から、中学校、高校に上がるまでずっと一緒にいた。そんなに長く付き合いが続いたの!?とびっくりしたが、自分にもそんな幼馴染が高校までいたし、そんなに珍しい話でも無かった。

セッちゃんは頭脳明晰で、学校の成績もトップクラスだった。ところがなんと、爺ちゃんも成績はトップクラスだった。

これもまた爺ちゃんの遺影の姿からは想像も出来ないが、一緒に合唱部に入っていたらしい。

 

爺ちゃんは、お付き合いもしていない頃から、高校を卒業したらセッちゃんと結婚しようと思っていた。

 

「高校を卒業したら、俺は家が農家だから農業をやる事になるだろう。セッちゃんはどうするの?」

「何にも決めてない。私もうちの手伝いかな〜。」

「じゃあ・・・俺のお嫁さんになってくれないか?」

「いいよ」

 

本当にそのぐらいの会話でプロポーズが完了したらしい。

別にお付き合いしてた訳でもないが、お付き合いしてたようなもんだった。

ずっと一緒にいたのだから、これからもずっと一緒にいられる。

何度も助けられたし、自分も何度か助けた事があったのではないか・・・と思う。

勉強も、合唱部も、切磋琢磨して互いを高め合った。一緒になるならこの人以外に無い!そう思った。

 

早速両親に報告した。

「俺、高校卒業したらセッちゃんと結婚するよ」

と言った。ひい爺ちゃんは微妙な顔をしていたが、ひい婆ちゃんは完全に反対だった。そこで衝撃の事実を聞かされた。

「あの子は、私と同じ家の人間なんだ。あんたの婆ちゃん(ひいひい婆ちゃん)もそう。これ以上血が濃くなると、どんな子が産まれるか分からない。」

当時同じ集落内で、もはや親戚なんじゃないかってぐらい近親の人と結婚するのは、珍しいことでは無かった。

しかしその互いの血が濃くなると、何らかの障害を持った子が生まれるとされていた。

当時は耳が聞こえなかったり、声が出せない人が集落内で生まれたそうだ。

実際今では、いとことの間に生まれた子は障害を持って生まれる可能性が高いことが証明されていたりなど、あながち間違った話でも無いらしい。

 

そんな理由もあり、爺ちゃんはセッちゃんと結婚せず、いきなり連れてこられた知らない人と結婚した。セッちゃんと会うことは、生きているうちには、結局一度も無かった。

まあ・・・その連れてこられた知らない人ってのはうちの存命する婆ちゃんなんだけれど。

でもこの辺りのエピソードは、婆ちゃんが全部教えてくれた。婆ちゃんもそれを知っていて結婚したのだから、何だか可哀想な気もしてくる。

 

結婚してからしばらくして、子どもが生まれた。つまり僕の親父である。23歳で出来た子だった。

色々あったが家庭を持って、農家も継いで、自分の弟や集落内の仲間達と過不足なく暮らし、子を育てた。色んな人との別れがあったが、これはこれで幸せなもんだと受け入れて、戦争していた頃とは違う、家族との平和な毎日を過ごした。

 

 

だいぶ時をしばらくして、高校生になった僕の親父はこんな事を言い始めた。

「大学に行きたい。」

当時、家族からは猛反対を受けた。

農家なのにどうするんだ?田んぼや畑は?家族会議を開いて、コテンパンにし、夢を諦めさせた。爺ちゃんはその間、ずっと静観していた。 

 

親父は悔しかった。

農家に産まれ、自分の将来が決まりきっている事が。

実際には高校だって、偏差値が県内でもトップクラスに高い私立高校を滑り止めに、近くの県立高校を受験した。かなりの謎受験ムーブだった。

わざと県立高校の試験に落ちようとしたが、落ちれなかったようだ。そんな事ってあっていいのか。

 

後日、爺ちゃんに呼び出された。  

まあ座れ、と爺ちゃんは言う。農家の広い客間で二人っきりだ。きっとあの時の事について、ちゃんと説得をしに来たに違いない、と親父は思った。

時計の振り子がカチッ カチッと揺れる音が響いている。それほどの静かな夜だった。

 

「お前、本気で大学に行きたいのか」

 

爺ちゃんは言った。親父は頷いた。

 

「そうか」

 

爺ちゃんは、何やら感慨深そうな顔をして天井を見上げている。意を決するような顔で親父に向き直った爺ちゃんは、親父にこう言った。

 

「俺が生きてきた時代はな、国が言えば戦争に行き、親に言われて家を継いだ、そんな時代だった。自分だけのものであるはずの自分の人生が、国や誰かに決められていたんだ。」

 

親父が見ていた普段の爺ちゃんは、明朗快活で、カラカラとよく笑う明るい人物であった。今まで書いた過去の事も、当時は何も知らなかった。

「俺だって、やりたいことは沢山あった。でも俺にはこの家を守る責任があった。」

完全に説得に来ている・・・。親父はもう諦めるしかないのかと思った。だが、話はまだ終わっていなかった。

「ただな、俺はこれから先もこういう時代が続いていくとは思わない。自分だけの人生を、自分でやりたい事を決めて、それぞれが生き方を自由に選択する・・・きっとそんな時代になっていく。

お前に、本気でやりたいことがあるのなら、俺はそれを応援したい。これからの時代は、家族とか周りの目とか関係ねえよ。お前がやりたいように、自分の人生を生きていく、その背中を押すのが親の役目だと俺は思う。」

爺ちゃんはそう言うと、戸棚から何かを取り出し、客間のテーブルに雑にドサッと置いた。

500万円の現金の束だったという。

「これで大学に行け」

冬のひんやりとした空気の中に、爺ちゃんの言葉が響いた。

 

その後、親父はいわゆる底辺高校から、G-MARCH辺りの大学に合格した。その学校史上唯一であるらしい。

ただ、学費は全然足りなかったので、結局爺ちゃんに後で追加でねだりに行った。

「爺ちゃんってそんな過去があったのか・・・まあ僕、あんま記憶無いんだけど」

紅葉をぼんやり見ている僕に、親父は爺ちゃんの話をしてくれた。

「俺も(爺ちゃんが)死ぬまで知らんかったいや」

親父は、農家を継がずいわゆるサラリーマンになった。農家になっていたなら、ずっとこの家にいて、僕や妹が転勤した先の青森で生まれるなんてイベントも無かっただろうし、色んな事が違っていたはずだ。

爺ちゃんが、親父に与えた道の分岐の影響はあまりにも大きい。それは僕にとってもだ。

「お前、爺ちゃん死んだ時に夢に出てきたって言ってたよな?」

「あぁ・・・そうそう、それは僕も覚えてるよ。それだけは何か、すごく覚えてる。」

先程も話したけれど、爺ちゃんは60歳の若さで亡くなった。当時親父は37歳、僕は3歳で、ひい爺ちゃんもまだ生きていた。

 

 

爺ちゃんと最後に会ったのは、親父も僕も、僕の母親の弟の結婚式だった。

既に体調が悪そうな様子で、そんな無理しなくても・・・と周りが言う中、押して出て、首都圏までやって来た。

式場の下りのエレベーターに、爺ちゃんと、親父と、僕の3人だけが乗った。

僕はまだ小さかったので、親父と手を繋いで、何かを話している2人のことを見上げることしか出来なかった。

途中で扉が開き、じゃあな!と僕の頭を撫でた爺ちゃんだけが、扉の外に出て行った。親父と僕だけがエレベーターに残され、更に下の階に向かった。

これが、親父も僕も、意識のある爺ちゃんを見た最後の姿だった。

 

僕は夢を見ていた。

夢には、結婚式場のエレベーターと同じ、親父と僕と、爺ちゃんがいた。

今度は、親父も爺ちゃんも喋っていなかった。

エレベーターの扉が開く。爺ちゃんは今度はじゃあな!とも言わず、僕の頭を撫でもせず、光り輝く扉の向こう側に進んで行った。

扉が閉まり、眩しい光が無くなると、元のエレベーターの光景に戻った。

親父を見上げると、無表情のまま、閉じた扉の向こう側があるかのように、前をじっと見つめていた。

 

朝、目か覚めた僕の第一声、「夢におじいちゃんが出てきた」に、母親は大層驚いたらしい。

この日、あともう少しで日が昇るかという頃、爺ちゃんは亡くなっていた。脳出血だった。

意識不明で病院に運ばれたが、間に合わなかったようだ。

 

爺ちゃんの通夜・葬式には、いつの間にこんな人望を築いたの?というくらい、特に通夜の日なんかは農家で割と広い実家の前にまでも行列が出来てしまっていて、家族側が戸惑ってしまったらしい。

何とその葬式にはセッちゃんも姿を表したらしい。うちの婆ちゃんとは完全によそよそしく、特に何を言うわけでも無く帰って行ったらしい。

 

60歳という若さで亡くなった爺ちゃんを見て、宣言通り戦争から生きて帰ってきた存命のひい爺ちゃんや、結婚をやめさせたひい婆ちゃん、結婚をやめさせられたセッちゃん、何も知らずに結婚した婆ちゃんと、自由な生き方を与えてもらった恩返しがまだ出来ていなかった親父。

それぞれが、一体どう思っていたんだろう。僕は今でもその過去に思いを馳せてしまうのである。

 

「マジで年々いつの間にか紅葉見てるわ、桜なんて昨日見たみたいだぜ」

「さすがにそれはないが・・・」

 

自虐する親父は、最初にも言った通り「こっちが紅葉ですか?」と思ってしまうほどに濃い赤い色のセーターを着ている。

この赤いセーターは、実は僕からの誕生日プレゼントだ。赤いちゃんちゃんこを模したつもりだった。親父は今年の誕生日で60歳で、ついに爺ちゃんが亡くなった時の歳と肩を並べる事になる。

まだまだ人生折り返し地点、これからも長生きしてくれよという、願いを込めたプレゼントだ。

 

「お前、結婚したいとか思ってるの?」

「いやぁ〜・・・どうすかねぇ、家庭を持ちたいとは思うけど」

「ははは、真面目過ぎるからなお前は!まあ子ども好きだもんな、子どもはいいぞ。」

「焦らなすぎて自分が怖いが」

 

親父は紅葉の中を歩きながら、僕に言葉をかける。 

「俺は多分、お前が居なかったらここまでちゃんと生きられなかった。お前が生まれた瞬間から、俺はお前と一緒に成長出来たんだよ。だから子どもはいいぞ。」

その言葉は、物理的にではない寒さを感じていた僕の心にまで暖かい風を吹き込んでくれたような気がした。まあ、ていうかぶっちゃけ・・・子どもの頃って殆ど婆ちゃんか母親と一緒にいた気がするけど・・・。

もし、僕にも子どもが出来たら、子どもと一緒に成長すればいいんだなって思うことが出来た。親父、たまにはいい事言うじゃねーか。風呂場でダンスして足滑らして強化ガラスをぶち破ったりした癖に。

 

爺ちゃんは・・・多分、うまくいかない人生だった。

国が言えば戦争に行く時代に生まれ、親に言われて家を継ぎ、結婚したかった人と結婚させない為に、知らない人といきなり結婚させられた。

でもその人生の中にも、きっと幸せを見出していた。そしてその人生は当時は当たり前のものだった。

爺ちゃんの本当に凄いところは、自分の生きてきた道に縛られず、自分の子である親父が生きている世代と時代に考えを合わせ、将来の選択肢を広げた所にあると思う。

年長者になると、自分の生きてきた道を元にアドバイスしがちだ。しかしひと回り下の歳の人達でさえ、自分とは全く異なる道を通って今を生きている。

僕の10年前、高校生の頃は、TwitterもLINEもYouTuberも無かった。今の子達はそれらがある高校生活を生きている。自分の高校時代の経験を元にしたアドバイスなど、恐らく"老害"なんて言われてしまうだろう。

説教臭くなってしまうかもしれないけれど、きっと、若い人たちの"当たり前"に寄り添う事が年長者の務めでは無いかと僕は思う。

爺ちゃんが僕の親父に農家を継がせず大学に進ませたように、もしかしたらこれから同性婚や選択的夫婦別姓が当たり前になってくるかもしれない世代に、道を拓いてあげる事が長く生きる者の務めのような気がしている。

"先に生まれし者は後に生まれし者を導き、後に生まれし者は先に生まれし者を弔う"という、古き良き言葉の通りだ。

 

某ワンピースで某チョッパーの恩師のDr.ヒルルクが、チョッパーに「人が本当に死ぬのは、人に忘れられた時だ」という言葉を遺すシーンがあった(あった気がする)。


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某ワンピースの某Dr.ヒルルク

 

誰しもに忘れられた瞬間、その人はこの世から本当にいなくなってしまうのだ。

今、この文章を通して、ささっこの爺ちゃんってそんな生き方をした人なんだ〜と、知っていてくれるかもしれない人が増えたはずだ。とても不思議な気持ちになる。

僕の爺ちゃんの生き方を覚えてくれている人が、もしかしたらインターネットの奥の遠い場所にもいるかもしれないと思うと、僕としてはこんなに嬉しいことはない。僕の爺ちゃんは亡くなったけれど、この世ではまだまだ長生きしそうだ。

 

「爺ちゃん、僕らは今とても自由に生きることが出来ていますよ」

 

真っ赤に染まった公園のもみじの木の下で、秋空にそう告げると、夕日に向かって申し合わせたように菊が舞った。

ありがとう、ツイッターランド。

電車の窓の外の景色を見ていると、公園のブランコで泣いている小さな女の子の姿が見えた。

 

自分の中にある既に過ぎていった記憶たち、それと重なる景色を見つけると、ハッとしてつい目で追ってしまう。

 

「・・・ん?どうした?」

 

座っている席の隣から職場の同期が言う。入社式の時点で既に仲良くなり、今は休日にも一緒に山に登ったりする友達でもある。今日は出張で、一緒に同じ列車に揺られている。公園のブランコで泣いていた女の子は、既にひとつの景色として窓の外に通り過ぎて行った。

 

「いや、何でもないよ」

 

そう僕が答えると、その表情を見ただけで同期は察してくる。

 

「ずっと思ってたけど・・・やっぱ何か悩んでる事でもあるんじゃないか?お前」

「いや・・・」

 

ここで「悩みが無い」と言うのは一番無難な答えだが、嘘になってしまう。同期であり友達でもある彼には本当の事を話したかった。

 

実を言えば、最近、というかここの所ずっと、僕は情緒不安定だった。周りにいる人に悩みを相談する事で、心配をかけたくないと思ってしまっていた僕は、その全てをTwitterにぶち撒けていた。

 

TLには顔も知らない人達のツイートがひしめいている。しかし、Twitterのフォロワーだって人間だ。自分のツイートなど誰も見ていないという錯覚に陥った僕は言いたい放題ツイートし、その様子を不快に思っている人は確実に多くいた。その事に突然気づいてしまったのだ。

 

「実はTwitterの事で悩んでいて・・・」

Twitterの事で!?」

 

同期は大層驚いていた。それもそうで、彼はリアルの友達しかフォロワーにいないようなTwitterの使い方をしている人だ。知らない人はブロックしている。その使い方も何も間違いはないだろう。何ならもう飽きたらしく、Twitterはやっていないようだった。

 

Twitterで何か、友達とトラブったりしたのかよ」

「まあ友達だな、顔は知らないけど・・・」

「顔知らない友達!?」

 

同期は大層驚いていた。さっきの事と言い、正直ごもっともではある。顔も知らない友達だなんて、何とも不気味な関係性だ。

 

 

Twitterを始めたのは、実はおよそ10年前のことだ。

 

高校を卒業した僕は、初めてTwitterに触れた。2chの匿名性に慣れていた僕は、匿名でもあったりするけれど、特定の個人としての要素もあるTwitterにワクワクした。

 

ここからは、これまで僕がTwitterをやっていて、衝撃を受けた事を5つほど紹介しようと思う。本当はもっと沢山あるけど、特にTwitterで印象に残っているのはこの5つだ。

 

 

 

1. ネタクラスタ

僕がTwitterを始めた頃には、既に"Twitterで面白いツイートばかりする人達"が存在していた。

 

本当に顔も何も知らない人達で、毎日毎日面白いツイートをし続け、多くのフォロワーを獲得していた。ツイート自体もよく拡散されていた。

 

Twitterの140字内でこうやって面白いツイートを主にし、有名になる人達は"ネタクラスタ"とか呼ばれていた。彼らは時に真剣に、時に適当に、自由気ままにツイートをしていた。

 

先程の僕の同期とは異なる、知らない人もフォロワーにいるような、"そういうTwitterの使い方"を始めるキッカケが彼らであった。自分などはネタクラスタまがいぐらいのツイートしかしてなかったけれど、結果的にこれが色々な人との出会いを生むこととなった。

 

あとたまに誤解されているけど、僕がネタクラスタまがいの事をし始めたのは相当後で、いわゆるTwitterで昔っから有名な人達からすれば、ささっこは相当遅く出てきたアカウントになる。

 

僕がそういうTwitterの使い方をし始めた時には、既にfavstarは存在していたし、「ふぁぼったーの赤ふぁぼツイート」とかは僕はよく知らなかった。


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とは言え、僕が始めた頃はまだこのTwitterアイコンだったし、始めたばっかの人は卵アイコンだし、アイコン自体も正方形だった。

 

・・・まあ、そんな何年も昔の細かい事、今となっちゃ同じくらいの時期で良いわと思うかもしれないですね。僕も思います。

 

 

 

2. 「ゆりかごはもうありません」

これは少しセンシティブな内容だけど、本当に驚いた事なので紹介させて欲しい。

 

「ゆりかごはもうありません」はFFの曲の歌詞らしいけど、僕も詳しい事はよく知らない。とある個人のツイートである。

 

実は、これは当人による"最期のツイート"でもあった。

 

僕がいつものようにツイツイとTwitterをやっていると、TLにいる何人かが急に喪に服し始めた。誰か有名な人でも亡くなったのかと思ったが、そういったニュースは一切無い。

 

調べてみると、どうやらTLにいる何人かの、そのフォロワーである人が、自殺をされたとのことだった。僕は知らない人だった。

 

その方の最後であり、最期のツイートが「ゆりかごはもうありません」だった。今でも知ってる人は知っている、記憶に残るツイートだ。

 

その方は、特に自殺をほのめかすようなツイートをしていた事は無かった。だからこそ皆驚いたし、悲しんだ。「ゆりかごはもうありません」も、とても意味深なツイートに感じられ、そのインパクトは凄まじいものだった。

 

僕にとっては全く知らない人、アカウントを知っているフォロワーも顔は知らないような人の死に、TLでは多くの人がその死を悲しみ、喪に服した。

 

初めて、Twitterの文字の向こう側にいる人が亡くなった瞬間であり、その文字の向こう側には人がいるという事を、自分に強烈に感じさせた出来事だった。

 

 

 

3. めざまし三宅アナ似の全裸中年男性

TLに、突如としてめざまし三宅アナ似の中年男性の写真ツイートが見られるようになった。

 

「誰なの?笑」と思いながら見ていたが、これにも驚かされた。その写真の人物は、普通に相互のフォロワーだったのだ。しかも何なら同世代くらいの人だろうな〜と勝手に思っていた人だった。  

 

その人は、「さよなら絶望先生」の風浦可符香のアイコンでTwitterをやっていた。

 


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言うまでも無いが、上がTwitterのアイコン、下はそのフォロワーに激似のめざまし三宅アナである。

 

それもそれでかなり衝撃を受けたんだけれど、まあアカウントの中の人の顔までは確かに知らなかったし、どちらかと言うと僕は顔面ドアップのその流出写真自体に驚かされた。

 

別に、顔の知らない向こう側にいる人がおっさんである事なんて、全然構わないことであった。結構意味不明だったのが、顔面ドアップなのも別にいいんだけど・・・何かどう見ても服を着ていない様子なのである。

 

DMで女性を装った(本当に女性だった可能性もある)フォロワーに騙されて、服をちゃんと脱いだ自撮りを送り返したらしい。どういう騙され方なんだろう。

 

しかも、何ならちゃんと全裸で、全身が写っていて、股間を手で隠している自撮りまで普通にTLに流れてきた。本当にどういう事なんだろう。どんな騙され方をしたらこんな事に・・・人質でも取られてるのか・・・?と衝撃を受けた。

 

Twitterのアイコン、そのアカウントの奥には、どんな人がいるのか本当に分からないな・・・いや自分もそうなんだけど・・・と気付かされた出来事だった。

 

それ以来、僕はまともにめざまし三宅アナを見る事が出来ず、ZIP派になってしまった。

 

 

4. 音声入力でTwitterを開こうとした武藤敬司


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僕がTwitterをしていて、一番笑ったツイートです。

 

 

5. アイドル声優を目指す女子高生

「今は声優・タレントの養成スクールに通ってるよ!」

彼女はTwitterでそんな事を言っていた。

まあ彼女っていうか、その奥にいるのは全裸のおっさんである可能性もめっちゃ高い訳だけど、一応そこは設定を受け入れて"彼女"とする。

 

彼女はまだ17歳だった。女子高生で、アイドル声優を目指して努力をしている、まるで漫画やアニメの中の人のようだった。さすがに釣りのように感じられたし、全裸のおっさんも勿論脳裏をよぎったのだけれど、そこは設定を受け入れた。

 

何故そんなにも、アイドル声優を目指す17歳をそうであると信じたのか。それは僕とのTwitterのやり取りにあった。

 

「いつか私も有名になって、ささっこさんを能年ちゃんに会わせてあげるね!」

 


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能年ちゃん、今はのんちゃんであるが、僕とは同い年でほぼデビュー当時からずっと憧れている女優さんだ。そんな女優さんと引き合わせてくれると言うのだ。

 

普通に考えてそんな事って有り得ないんだけど、何だかその無鉄砲な夢と約束に、このTwitterの奥には本当にアイドル声優を目指す17歳の少女がいる気がした。胸が物凄くパチパチとした瞬間だった。

 

彼女はもう、2014年の特になんでもないツイートを最後に姿を消している。アカウントだけが、大きな夢の跡のように無造作に投げ捨てられたままだ。

 

この時彼女が語っていた夢が、本当に叶っているのかどうか、僕には分からない。今はもう24歳であるはずで、現実的に考えたら夢破れて普通に働いて暮らしてるだろうし、だけど、もしかしたら僕が今遊んでいるウマ娘の声優なんかになっているのかもしれない。 

 

顔も知らない彼女がツイートをしなくなり、僕のことなんて忘れてしまっていても、僕は彼女の無鉄砲な約束をいつまでも覚えている。Twitterは時にそんな無根拠な、大きな夢と希望を与えてくれた。

 

 

 

 

 

今はTwitterの使い方を自分で間違って、自分で嫌になってしまい、ツイートするのをしばらくやめてしまっている。

 

差し込む夕陽が眩しいが、スマホTwitterの公式アプリを開いてみる。


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何時間も前のTLが映し出された。今日も今日とてフォローしている人達が、馴れ合ったり、自分の事をツイートしたり、リプライでやり取りしたりしている。

 

Twitterを今までやって来て出来た思い出は、上記にある5つだけではもちろん無い。

 

皆で4時になったらツイートした。

皆でうわあぁああぁぁあぁと言いながら椅子から転げ落ちた。

皆でSkypeのグループを繋いでさぎょいぷをした

皆でフォロワーのツイキャス配信にコメントした。

皆で通話しながらマリカーとかスマブラをした。

 

また、自分がツイートする事で出会った、顔も知らない人達との思い出は星を数えるほどに果てしない。僕のTLには本当に色んな人が居て、居なくなって、また新しくフォローして、帰ってきて・・・を繰り返して今のTLになった。本当に色んな人と知り合う事が出来た。

 

アイコンを描いてくれた人がいた。

ずっと妹を欲しがっている人がいた。

いつもピザを焼いている人がいた。

ユニバの年パスを買って日々ユニバを散歩する人がいた。

西日本から青森まで車で行っちゃう人がいた。

パンセクシャルでプロのカメラマンになった人がいた。

朝になると「おはわっぎゅー!」と挨拶する人がいた。

YouTubeの配信を通して一緒のゲームで交流した人がいた。

リクエストしたらギターを弾きながらaikoの"17の月"を歌ってくれた人がいた。

自分の車がよく文鎮になっちゃう人がいた。

まだ若いのにいきなり双子が生まれた人がいた。

一緒に宮島に行ってくれた人がいた。

僕のイマジナリー姉になってくれる人がいた。

ゲームを通して8年ぶりに通話した人がいた。

いつも愛救ってる(アイス食ってる)人がいた。

スマブラがプロ級にうまい人がいた。

知らない面白い漫画を紹介してくれる人がいた。

三限氏の読みが"みつかぎりのうじ"だった人がいた。

パチンコ屋で監視カメラにむけて空の財布を開いて見せた人がいた。

歳は離れてても僕らと交流してくれる人がいた。

「絶対幸せになってね」と言ってくれた人がいた。

実際に会った後「今どき珍しい純粋な子だった」と言ってくれた人がいた。

「好きな人の幅が狭いんだよね」というその幅の中に僕を入れてくれた人がいた。

 

そして、「ささっこ、帰ってこい。」とツイートしてくれる人がいた。

 

色んなフォロワーのツイートが、自分の胸を何度も何度も打った。そこには確かに、文字だけだったとしても、人が発する温度があった。あたたかさがあった。恵まれた出会いがあった。

 

僕はこのあたたかさをしばらく感じなくなってしまい、大切にしていなかったように思う。そんな自分に気づいて本当に嫌になっていた。

 

例えば、メール等で苦情が送られてきた時、文面では大層お怒りで罵詈雑言の嵐であるが、実際謝罪に赴いてみるとそんなに怒っていなかった、というのはよくある話であるらしい。実際に目の前に人間が現れると、人は急にあたたかさを思い出すのかもしれない。

 

僕は、今一度Twitterの文字の奥に、人がちゃんといる事を思い出した。リアルの友達が見てても恥ずかしくないような言動をこれから心がけて、嫌いな自分を変えて、ちょっとずつ自分を好きにならなければ、と思った。

 

その奥にいるのが、全裸のおっさんでも、今にも自殺しそうな人でも、アイドル志望の女子高生でも、それが本当か分からなくても、僕は人として彼らに向き合い、また楽しい思い出を作っていきたい。

 

「ありがとう、ツイッターランド。」

 

僕はそうつぶやいて、Twitter公式アプリを閉じた。

 

 

 

 

帰り道の列車の窓の外では、茜色の夕陽に照らされた鉄塔の下で、黄金の稲穂が辺り一面輝いていた。その中の舗装された道を、一組の男女が歩いている。凛とした綺麗な女性の方に、思わず目を奪われてしまう。

 

あの二人は、友達同士だろうか、恋人同士だろうか、それとも、先輩と後輩だったりするのだろうか。季節はもうすっかり秋だ。もう風鈴の音もすっかり聞こえなくなってしまった。

 

「何たそがれてんだよ」

 

隣の席にいた同期が、僕を茶化すように笑っていた。こいつも僕にとって、僕のほとんどを知っている大切な友達だ。彼に「顔を知らない友達も、結構良いもんだよ」と伝えたかったが、やめておいた。

 

そういえば、公園のブランコで泣いていたあの女の子。あの子にも友達はいるのだろうか。

 

優しい友達がいるといいんだけど。

20年振りに会った幼馴染

まるでここにいた時の記憶を失っているかのようだった。

 

新潟は物凄い湿気と暑さで、まるでミストサウナの様で苦しかったけれど、こっちは湿気もなく結構過ごしやすい。僕は両親と一緒に青森に来ていた。25歳の夏である。


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普段から周りにも、Twitterでも、「新潟生まれ、新潟育ちです!」感を出している僕だけれど、実を言うと親父の転勤で、生まれた病院もそうだし、5歳になるまでは青森にいたのだった。

 

ねぶた祭を見に来て!」と当時の青森で出来た友達から誘われた両親が、久々に行ってみるか!と旅行の計画を立てた。両親も、僕も、ねぶた祭を見るのは久々である。

 

"記憶を失っているかのようだった"とは、母親の「この公園で子どもの頃遊んだんだよ〜」という言葉への感想になる。何と、青森に来たのは20年振りの事だ。5歳以来になるから記憶も局所的にしかない。

 

僕が生まれたのは、当時の親父の勤め先である青森の、職場のすぐ近くの病院だった。

 

その時、生まれた瞬間に、僕は運命的な出会いをしていたのである。

 

 

 

 

僕より数時間早く生まれ、先に病院のベッドに寝ていた子が、5歳までずっと一緒にいることになるりっちゃん(仮名)だった。女の子で、もちろん誕生日も一緒だ。これから先、りっちゃんとは姉弟のように日常を過ごすことになる。

 

これは、母親同士が先に仲良くなった為だった。うちの母親は佐渡ヶ島の出身で、何でまたこんな青森に・・・!?と興味を引かれたらしい。佐渡ヶ島はまあまあ人口の多い島で、新潟市にいれば佐渡ヶ島出身者なんてよく見るのだけれど、青森では流石に珍しかった。

 

そして、何より同じ日に同じ病院で産まれた為である。

 

これから先幼稚園でも、ずっと一緒に遊ぶ友達になった。どちらかの母親に、僕やりっちゃんが預けられる事もしょっちゅうあったみたいだ。急に親戚みたいな間柄である。

 

りっちゃんは元気な子だった。僕はどちらかと言うと静かであったらしい。ずっと引っ張られていたみたいだし、それも何となく覚えている。

 

りっちゃんには2個下の妹がいた。めいちゃんと言った。その子の記憶もある。5歳でお別れするまでその子とも家族のように一緒にいた。

 

自分は両親がどちらも日中働いていたので、りっちゃんの家に預けられる事がほとんどだった。りっちゃんの家はお寺だった。だから青森と言うと「寺で遊んでいた」というのがかなり印象深い。

 

元気な姉妹だったので、付いてくだけで寂しくなく、楽しかった。

 

 

 

もう1人、同じ病院出身だが同じ日には産まれておらず、ただ親同士が仲良くなって行動を一緒にしてた子がいる。そいつはリュウ(仮名)と言った。男の子だった。

 

りっちゃんの父親と、リュウの父親は同級生でそもそも仲が良かった。詳しく聞いてないけど、多分その関係から一緒に遊ぶようになったのだろう。

 

別にいじめをされた訳でもなく、普通に良い奴だった。ただ、りっちゃんめいちゃんの記憶に比べて、リュウの記憶はかなり薄い。「ねぶた祭の最中に食うもんがキュウリしか無く、仕方なく一緒に食いまくっていた」という、印象的なのはその記憶ぐらいだろうか。一緒に遊んでいたという記憶だけはある。

 

さっき青森の記憶が局所的にしか無いと言ったけれど、僕が覚えているのはまさに、りっちゃんとその家族、リュウとその家族、一応アスパム、そして、ねぶた祭の熱気、それらが交じりあった断片的な思い出だった。

 

断片的な青森の思い出の中でも、強烈に覚えている事が一つだけある。

 

りっちゃん、そしてめいちゃんとお別れする時だ。

 

りっちゃんと2人で、近くの小学校のブランコで写真を撮った。それが最後の一緒の写真だった。

 

 

 

 

別れの時が来る。

 

僕が車に乗ろうとするのを見て、りっちゃんもめいちゃんも泣き出した。

 

僕はお別れとは思っていなかったのか泣かなかったが、2人を見ていると泣きそうになってしまう。

 

「ばいばい」と言っても、2人は両腕を力なく垂らした状態で、口を大きく開けて泣いたままだ。

 

車に乗り込んで、後ろを振り返る。

 

2人は泣きながらだが、ようやく手を振り始めた。車が発進する。2人とも走って車を追いかけながら、泣きながら手を振り始めた。僕は車の窓を開けて、後ろに向かって手を振りながら叫んだ。  

 

「ばっ・・・!!ばいばーーーーい!!!!!!」

 

叫んだ僕も、涙がぶわっと溢れて震え声になってしまった。

 

この後、僕らは20年もの間、一度も会わなくなるとは思っていなかった。

 

 

 

 

青森に来たのは20年振りだ。今回、僕はねぶた祭を久しぶりに見に来たのである。

 

青森の人曰く、青森はお盆というよりねぶた祭に合わせて県外の人が帰省してくるそうだ。今りっちゃんは県外で働いているらしいが、僕はそのねぶた祭を見に来たのだから・・・?

 

なんと25歳にして、実に20年振りの再会ということになる。

 

 

青森駅前の道路は既に活気に満ち溢れていた。ねぶた祭の跳人(はねと)と呼ばれる人達は、両肩から腰にかけてカラフルな紐を巻いていて非常に可愛らしい。

 

非日常感のある跳人の格好で、ママチャリを爆漕ぎする高校生らしい子達。非日常感の中に垣間見えた日常が何だか素敵だった。


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夕焼けが細くなる毎に町の活気はどんどん高くなっていく。

 

正直、道路とかを歩いていても「青森ってこんなに栄えてた・・・?」という驚きばかりで、記憶が全然無かった。

 

「あっ!!」

 

突然、何かここ知ってるぞ!という景色が目の前に現れた。りっちゃんの親戚の家である。

 

りっちゃんの親戚の家は、ねぶたが通る道路の脇にちょうど良く建っている為、当時から知り合いの溜まり場になっていた。

 

母親の話だと、自分たちもここに呼ばれて一緒にねぶたを見たそうだ。もちろんりっちゃんやめいちゃんやリュウもいた。

 

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドで、リンクがウツシエの記憶を思い出した時みたいだった。

 

自分の中には「ここがどこだか分からないのに、ここに来た事がある」という感覚が確かにあった。今まで経験した事が無い感覚だ。

 

既に、ここでねぶたを見る為の知り合いが寄りあっていた。勿論殆どが知らない人だ。

 

え?てかここがりっちゃんの親戚の家ってことは・・・?まさか・・・!!

 

 

ザッ

 

 

風が吹いた。玄関から若い女性が現れる。僕はひと目見ただけで確信した。

 

何だか今初めて会ったようなのに、懐かしい感じがする。外見は全く知らない人なのに、知ってる人のような感じがする。ずっと会っていなかったのに、ずっと友達だったような感じがする。

 

そうだ、間違いなく・・・この子が・・・! 

 

病院で一緒に生まれて、姉弟のように一緒に過ごして、号泣しながら手を振ってお別れした、あの━━

 

 

女性「どちら様です??」

僕「あ、笹なんですけど・・・」

女性「笹・・・?」

 

 

アレ・・・?

 

 

母親「りっちゃんとママは来た?」

女性「あぁ、まだ来てないですよ。もうちょいで来ると思うので待っててくださいね!」

 

 

 

・・・普通にここの家の子だった・・・。

 

おかしいと思ったんだ。よくよく考えたらまだ若いっていうか、JCかJKくらいの見た目の子だった。条件が重なり過ぎてバイアスがかかっていた。自分のウツシエの記憶は改竄されていたらしい。

 

両親は普通に知り合いがいたようで、色んな人と久しぶり〜!というような様子で話していた。

 

両親が笹だよと僕を紹介すると「えぇ!?あの笹ちゃんかあ?おっきくなったな〜・・・!」と言われた。当然、僕は誰なのか分からない。記憶喪失にあったようである。

 

更に、リュウの両親と弟達もしれっといた。リュウの両親も僕に驚いていた。「おっきくなったねぇ・・・」と感慨深そうだった。ここまで来ると申し訳なくなってくる。

 

リュウは今高崎にいてさあ、全然青森には来なくなったの」

 

どうやら風来坊過ぎて、ねぶた祭の時期ですら帰ってこないらしい。何となく自由人な覚えがあったので、あんまり記憶に無いくせに「あいつらしいな」とか思った。

 

 

 

 

何人かとそんなやり取りをしていると、女性3人組が親戚の家に到着した。

 

そのお母さんみたいな人が、こちらを指さして「あー!!」というようなリアクションをしている。

 

その隣にいる女性も、「あっ!!」みたいな顔をしてこちらを指さしていた。

 

いや・・・?もしかして指さしてんの後ろか?とさっきの件で完全に疑心暗鬼になっていた僕は後ろを振り向いた。誰もいる様子が無い。

 

前を向き直すと、もう僕の目の前に女性が立っていた。

 

右手を差し出してきた。

 

「久しぶりだね!!まさか忘れたわけじゃないよな?」

 

忘れるわけが無い。こんなにも元気過ぎるくらい元気な女の子と、生まれた時から5年も一緒にいたんだ。

 

右手で相手の右手を掴み、夕日に照らされた幼馴染の顔を見てこう言った。

 

「ちょっと忘れてた」

 

おい!と笑われながら、軽く小突かれた。

 

りっちゃんと20年振りに再会した。

 

 

 

3人組のもう2人は、普通にりっちゃんの母と、めいちゃんだった。

 

りっちゃんは僕より全然身長低いくらいだったけど、めいちゃんは僕くらいの身長だった。姉妹でこんなにスタイル違くなる事ってあるのか。

 

「あんまり覚えてないですけど、大好きだったと聞いてますよ」

 

どういう顔をしていいか分からず、ハハッ・・・と夢のネズミみたいな感じで笑って誤魔化した。大好きだったと聞いてますよって何・・・?モテ期は人生で3回来ると言うけど、もしかして僕の記憶が無いうちに3回来たんだろうか。最悪過ぎる。

 

りっ母「大きくなったねぇ笹ちゃん!」

 

この人の事はよく覚えている。りっちゃんのお母さんだ。うちの母親も大概元気だが、さらに輪をかけて元気でお節介な人だったと記憶している。うちの両親と僕がこうして青森に来れたのも、この人からの誘いだった。 

 

僕「お久しぶりです!僕なんかもう、皆ほとんど初めましてみたいになっちゃって・・・申し訳ないです」

 

そう言うと、りっちゃんのお母さんは首を横に振っていた。

 

りっ母「笹ちゃんはいつまでも皆にとっては笹ちゃんだもの、全然いいのよ」

 

20年振りに来た土地で、こんなに優しい言葉をかけられるとは思わなかった。未だ眩しい夕焼けに照らされたこの場所が、第二の故郷であると猛烈に感じられた。

 

 

 

急に完全に僕の話になるが、この日僕は半袖で来ていた。真夏なので当たり前であるが、青森の夕方は結構寒かった。

 

両親から冷えるぜ?と言われていたのに、夏やしへーきへーき笑 と思って来たら、りっちゃんと再会した時点で吹く風に割とブルっとしていた。

 

り「寒くね?笑」

俺「寒い・・・」

り「無印あるよ」

俺「長袖シャツだけでも買って来た方が良いな、本当に寒い」

り「じゃ一緒に行こうよ」

俺「まじ!?良いよ長袖買ってくるだけだよ」

り「うるせェ!!!!行こう!!!!!!」

 

一応言っておくけれど、20年振りに会った人達の会話である。

 

チョッパーを仲間に引入れる時のルフィみたいな事を言われているが、ほとんど初めましてなぐらいなのに、いつの間にかずっと前からの友達みたいな会話になっていたのを覚えている。

 

無印良品は本当にすぐ近くにあった。

 

何でも良いやと思って買った白い長袖シャツを、「もう着ます、寒いので」と言ってその場で装備したら、中国の拳法家みたいな格好になり、りっちゃんが爆笑していた。

 

「ダセ〜笑」

 

その笑顔を見ていると、もし、僕が青森で20年過ごしていたら・・・僕らは今どうなっていたんだろうと、無かった20年に思いを馳せてしまう。

 

 

 

その帰り道、近所の男の子(?)と出くわした。

 

子「りつ〜!おんぶしてくれ〜〜!」

り「自分で歩け!!」

子「よいしょっと!けっぱれけっぱれ〜」

り「うるせぇよ!!!」

 

そう言い返しながらも、りっちゃんはおんぶをしてあげていた。

 

り「けっぱれってさあ、多分青森の方言だよね?」

僕「え!?そうなのか」

り「だって、大学は東京だったけど、けっぱれなんて言葉聞いた事ないよ」

僕「確かに僕も普段聞かないけど・・・アレ何で意味は知ってんだろ・・・?」

 

調べてみると"けっぱれ"は、津軽弁である事に間違いは無い。ただ使用されている範囲は北海道や岩手など、非常に広く青森の津軽弁に限った話では無かった。

 

僕が何故この言葉の意味を知っていたのか、本当に分からなかった。りっちゃんには「古(いにしえ)の記憶じゃね?笑」とか言われた。

 

 

 

そんな会話をしていると、小学校の前を通った。

 

り「私が通ってた小学校だよ。笹ちゃんもここに通う予定だったはず。」

 

そうだったのかあ、なんて返事しながら眺めていたが、グラウンドにポツンとあるブランコが見え、その瞬間、脳に電流が走った。

 

思い出した・・・!僕はここに来たことがある。

 

いや、正確に言うとここに来たことは覚えていない。"ここで撮った写真"を見た記憶があるのだ。間違いなくあの別れ際の写真に写っていたブランコだった。

 

僕「なあ、ちょっと写真撮らないか?あのブランコで」

り「何で!?」

僕「いや・・・あそこのブランコで2人並んで撮った写真を見た記憶が確実にあってさ」

り「へ〜、そうなん」

子「僕の小学校だよ!ここ」

 

そんな男の子の言葉を申し訳ないけど少しスルー気味に、思い切って提案した。

 

僕「・・・20年振りの写真、撮りたくないか?」

り「・・・!」

 

明らかに表情がパッと咲いたのがわかる。久しぶりに会って以来、本当に素直でノリの良い人だとずっと感じている。

 

こうして、2人で並んで写真を撮った。写真はおんぶされてた男の子に撮ってもらった。

 

20年振りに撮った2人の写真は、お別れする前に撮った20年前のブランコでの写真より、ずっと明るい表情でのブランコの写真だった。

 

 

 

 

りっちゃんの親戚の家に戻ると、何か既に大勢の人がいて、完全に出来上がっていた。

 

思い出話をする僕、りっちゃん、リュウの両親達や、めいちゃんと男友達(?)、リュウの弟達、そしてその親戚の家の子達がわちゃわちゃとしていた。

 

めいちゃんは一緒にいた男友達に「20年振りに会った幼馴染だよ」と紹介し、男友達はたいそう驚いていた。

 

20年振りに会った幼馴染か・・・そんな紹介のされ方ってあるんだろうか。普通なら意味が分からないのに、意味が分かって面白かった。

 

家の前でBBQをしていたので、りっちゃんも知らない人と話し始めてしまい、暇だった僕は、子ども達と話しつつ肉を焼きながら時間になるまで待った。

 

肉を焼いていると、「おぉ!?笹ちゃんかあ!」とおばあさんに声を掛けられた。

 

り「あ、お婆ちゃんだ」

婆「おっきくなったねぇ」

僕「あ・・・こんにちは・・・」

 

かなり申し訳ない話だが・・・僕はこのお婆ちゃんの記憶は全然無かった。でもりっちゃん曰く、「雨で外で遊べない時家で一緒に遊んでくれた」 らしい。

 

僕「僕、ここにいたのは20年前ですし・・・というかよく僕だって分かりましたね。」

 

そう言うと、お婆ちゃんは微笑みながらこう言った。

 

婆「大きくなっても、笹ちゃんは笹ちゃんさぁ」

 

隣でりっちゃんもうんうんと頷いていた。

 

青森の夕暮れは肌寒くて長袖を着たほどだったけれど、心は凄くあたたかくなった。

 

 

 

夕陽はやがて暮れ空が淡く緑色になり、とうとう、ねぶたの祭囃子がかすかに聴こえてきた。

 



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ねぶたの祭囃子は、でっかい太鼓、横笛、手振り鉦と呼ばれる小さいシンバルの様なもので音が形成される。

 

身体をも震わせる大きな太鼓の音と、波のように上下する高い横笛の音、その2つとリズムを併せて手振り鉦が打たれ、この祭囃子によりねぶた祭の力強さと迫力が一層際立つものとなる。

 

僕はこの祭囃子がとても懐かしかった。曖昧な記憶なんかじゃなく、ねぶた祭の記憶はしっかりとある。

 

というか、ねぶた祭は一度その場所に訪れて見てみると、絶対いつまでも忘れられないものになる。僕は20年振りに生でねぶた祭を見て、改めて日本一のお祭りだと思った。

 

いよいよ"ねぶた"が目の前に現れた。感じたのはとにかく「でけえ」そして「綺麗」という事だ。

 

ねぶたは毎年「ねぶた職人」と呼ばれる人が魂を込めて作成している。最初の頃のねぶたは竹を曲げて型を作っていたが、現在はより細かく型を変えられる針金式だ。その型に和紙を貼り、色付けを行っている。

 

全長は何と約4m。そりゃでかい訳だ。首が痛くなるほど見上げた先には力強く夜気を掻くねぶたの姿がある。

 

実際に目にするねぶたのでかさはそれはもう尋常ではない。自分の目に映る全てはねぶたに埋め尽くされる。ねぶたの雄々しく、そして猛々しいその姿、またその色鮮やかさに思わず見惚れてしまう。



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写真を撮ってみる。充分綺麗ではあるが、はっきり言って目の前を通るねぶたは1000倍はでかくて綺麗な印象だった。

 

いつの間にか、ねぶたを見る僕の隣にりっちゃんが来ている。

 

横顔を見ていると、いつの間にか周辺にいた子ども達と一緒に「回してー!!」と大きな声を上げた。

 

 


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・・・!?

 

ねぶたが、回った。

 

そんな手練の技があったのかよ!!と驚愕の表情を浮かべていると、りっちゃんは得意気な笑みだけ浮かべ、どっか行った。ねぶた祭界の剛の者である。

 

ねぶたと囃子と参加する"跳人(はねと)"の人達による、ねぶた祭の熱気は夏の夜気を掻き続けた。

 

 

 

次の日の朝、僕と両親は新潟に帰る前にりっちゃんの家に寄った。

 

りっちゃんはあの後、友達と飲むためにどっか行ったまま、帰ってきて二日酔いで寝ている状態らしかった。破天荒過ぎる。

 

正直、めいちゃんと言い皆が皆、最後らへんは僕のことは結構放ったらかしで、僕はただただ両親ズ&お婆ちゃんとねぶた祭を楽しんでいた。

 

おーい!笹ちゃん達帰るって!とお母さんが言うと、りっちゃんが現れた。

 

り「じゃあね」

 

限界そうだったので、もういいって!寝てな!と声を掛けた。

 

りっちゃん母にお世話になりました、ありがとうございました、と言うと、また来てねぇと言ってくれた。

 

り「来年も絶対来いよ・・・!」

 

恐らく振り絞りながら、そんな声を背中に掛けてきた。

 

僕「あいよ!!来年も絶対来る!!」

 

今度のお別れは、一応互いに笑顔だった。また会えるような気しかしなかったから。

 

 

 

 

一年後・・・

 

 

 

僕は、青森には行っていなかった。

 

何で!?と思われたかもしれないが、そう思いたいのはこっちである。仕事の都合で異動し、この時は新潟県長岡市に住んでいたのだった。

 

ねぶた祭の日程と被るようにして、長岡市では長岡まつり大花火大会が毎年開催される。これも茨城の土浦全国花火競技大会、秋田の大曲の花火と並ぶ、日本三大花火のひとつであり、非常に大きな花火大会だ。

 

この日の長岡市は人でごった返し、あまりの過密具合にスマホの電波が停波した(マジ)。


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この年も、復興と感謝のシンボルである"復興祈願花火フェニックス"が打ち上がる。長岡花火の大目玉だ。これを僕は休憩時間に、職場から眺めた。長岡に来る大量の観客の案内に駆り出されたのである。

 

それ故に、青森のねぶた祭に行くことは出来なかった。青森には両親と妹だけが行った。

 

長岡花火も本当にめちゃくちゃ良いんだけど・・・約束した手前、今年も青森に行きたい気持ちは凄くあった。働きたくないし。

 

スマホに着信が入り、また仕事の連絡かなと思って画面を見て、驚いた。りっちゃんからのLINE通話だった。

 

僕「はい」

り「何で来ないの!?」

 

余りにも想像通りの第一声だった。

 

僕「こっちでも長岡花火っていうでけぇお祭りがあるんだよ。今長岡に住んでるから駆り出されてさ。」

り「花火!?見たいんだけど!!!」

僕「そっちでも見れるだろ!ねぶた祭の最後の日に」

り「まあね。でも来なかったのめっちゃ残念だよ〜特別ゲストも来たのに。」

 

特別ゲスト?僕の両親とでも通話を繋げるつもりだろうか。

 

??「久しぶりだな!」

 

威勢の良い男の声だが・・・?ちょっと心当たりのない声だ。アレ?もしかして。

 

僕「リュウ!?リュウじゃないか!」

リ「へぇ・・・よく分かったなぁ」

僕「久しぶりな奴なんてお前しかいないよ」

リ「笹ちゃんが来るって言うから来たのに、来てねーじゃねーか!」

僕「それ去年だよ!風来坊すぎんだよ」

 

そう言って笑い合った。21年振りの会話とは思えないくらいに自然だった。あんまり互いに記憶が無いのにも関わらずである。

 

りっちゃんも交えて、(多分向こうはスピーカー状態で)少し雑談をした。リュウはもう働くのに向いてないと分かったからニートになろうとしているらしかった。風来坊が過ぎる。

 

一応リュウにも「キュウリ食いまくったの覚えてる?」と聞いてみたが、意味が分からないんだけどと言われた。

 

リュウが誰かに呼ばれてどこかへ行った後、りっちゃんとまた2人の会話になった。

 

り「あのさ、聞いてるかもしれないんだけど・・・」

僕「うん」

 

僕はこの後に続く言葉が分かった。恐らくあの事だろうな、と想像出来た。

 

それは僕にとっても、凄く嬉しい事であった。

 

 

 

り「私、来月に結婚することになったよ」

 

 

 

タイミングを合わせたように、川の向こうで大きな花火が一発上がった。

 

 

 

 

僕が青森に住んでいたのは、5歳の頃までだ。

 

自分にとって印象に残っていたあの悲しいお別れも、りっちゃんに聞いてみるとりっちゃんは覚えていなかった。そのぐらいの記憶なのだ。

 

それでも、僕とりっちゃんは普通に、ずっと前から友達だったかのように会話をした。りっちゃんだけじゃなく、めいちゃんも、りっちゃんのお母さんもお婆ちゃんも、電話越しのリュウも、5歳の時以来、20年振りに会話したとは思えないほど自然に話すことが出来た。

 

何でこんなに普通な感じで話せるんだ?当然疑問に思ったけれど、多分りっちゃんのお婆ちゃんが言っていた言葉が一番当てはまる。

 

 

「大きくなっても、笹ちゃんは笹ちゃんさぁ」

 

 

そう、大きくなっても、20年経っても僕は僕であり続ける。同様に、大きくなってもりっちゃんはりっちゃんだし、めいちゃんはめいちゃんだし、リュウリュウのままだ。

 

この関係性は、何年経っても家族であるかのように消えてなくなりはしなかった。場合によってはこういう縁が足枷になる場合もあるかもしれないが、自分にとってはこれ以上無い良い縁のように思えた。

 

遠い土地に、僕が僕であることを受け入れて、大切に思ってくれている第二の故郷を感じる事が出来たからだ。

 

きっと、青森だけに限らず、これまでもこれからも、色んな一期一会があって、その度僕を他の誰でもない僕として受け入れてくれる、心の拠り所が多く出来る事だろう。

 

本当に大切な縁ならば、時間の経過を不安に思わずとも、20年経ってもその縁が切れてしまう事は無い。僕はそんな風に思っている。

 

 

 

 

僕「結婚おめでとう」

 

驚かなかった僕は電話越しに、どんな顔をしているか分からないりっちゃんにそう声を掛けた。

 

り「あ、やっぱり聞いてたんだ?」

僕「聞いてたわ〜。だから"長岡花火タオルハンカチ"をお土産に親に持たせたんだよ。」

り「あぁ!アレってそういう事だったんだ。」

僕「御祝儀じゃなくてすまんがな。」

 

別に僕は、りっちゃんに恋心を抱いていた訳では無い。

 

しかし、病院で生まれた時から、5歳までだったとしても、姉弟のように過ごした思い出をとても大切に感じている。そして、大切な存在だと感じている。

 

だからもう既に親づてに聞いていたのに、もう聞いたんじゃないかと知りながら、結婚の報告を直接してくれたのがとても嬉しかった。何だか向こうも、僕のことを大切に思ってくれてる様に感じたから。

 

そして同じ場所、同じ時に生まれた人が、今度は家庭を持つ事になるなんて、これ以上無いくらい感慨深い出来事だった。

 

僕「来年こそは行くよ、旦那さんにもリュウにも会わせてくれよ」

り「私じゃ約束できないけど了解!絶対来いよ!!」

 

 

ちなみに裏話として、ここで出た"来年"とは去年の事であり、去年も今年も、青森ねぶた祭、長岡花火のどちらも中止となってしまった。一刻も早くコロナ禍が収束し、あの祭の活気、夜空を照らす花火が復活する事を祈るばかりだ。

 

 

 

電話を切った後、「おいこっちで上がるぞ!」と近くにいた職場のおっさんが騒いでいた。

 

長岡花火は、長岡駅から見て川の方向に花火が上がるようになっているが、最後だけ川よりも駅側、長岡市の住宅街側で一発だけ花火が上がる。

 

長岡市の人は、こぞって「長岡の人間はこれが一番好きなんだ」と照れたように笑う。ていうか、長岡市の地元の人って自らを"長岡の人間"と称しがちなのは何なんだろう。新潟市の人間との区別のつもりなのか。

 

 

一筋の花火がスっ・・・と夜空に線を引き、僕がいる真上で大きく光の花が開いた。

 

僕は、僕の横でねぶたに向かって「回してー!」と叫んでいた、何だか大人びて綺麗になった幼馴染の姿を思い出していた。


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僕「けっぱれよ、りっちゃん・・・」

 

僕の声は囁くような声だったのに、花火の轟音と歓声の中でもよく響いた気がした。あの夏の夜気を掻くねぶた祭の中にも届きますように。花火を見てそう願った。

 


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風鈴のように

 特に用など無いのだが、地元の神社に来た。

 一時期、何だか運の巡りが悪かった頃に、思い切って旅行がてら色んな神社を奉拝する旅に出たことがある。お賽銭を入れ、感謝を述べたそんな自己満足の旅だった。

しかしその後、立て続けに起きていた悪い流れがぴたりと止み、平穏な日々が訪れた。たまたまかもしれなくても、それ以来、特に用は無くても何となく神社に来るようになってしまった。

急に、久しぶりとでも言いたげに一匹のセミが鳴き始める。まだ梅雨明けのじめっとした重たい風が吹き、けたたましいセミの鳴き声の隙間に、今度はさわやかな風鈴の音が聞こえる。

早いなあ、とも思ったが、何だか懐かしい気分になる。風鈴の音を聞くと思い出す人がいる。

それは桜が既に散った頃、新しく社会人として職場に訪れた6年前の春の事だった。

 

 

 僕の会社は入社式が終わった後、職場ではなくいきなり泊まり込みの研修に行かされるタイプの会社だ。なので、もうGW前にもなるのに職場に訪れるのは初めてである。

とても緊張しながら職場に行くと、出迎えの人が立っていた。えっ!!?!?とかなり驚愕した。半端ない美女が立っておられた。

 「は、はは、初めまして・・・!」

もともと緊張していた事に加えて、話すのも緊張するような美女を目の前にし、最初っからとんでもない噛みっぷりだった。 

「緊張してる〜笑」

 そう言って微笑みかけてきた美女は、僕より1年前にこの職場に来た先輩だった。

 しかし、それ以降はしばらく、この先輩との会話らしい会話はしなくなってしまった。

 

 

 仕事は大変だった。毎日毎日覚えることが多く、研修の意味ってあった?というくらい忙しく、全然板につかなかった。

 一緒に働いてみて分かった事だが、美人な先輩は「自分の好きな人以外とは話したくない」というハイパーお転婆な、お姫様みたいな人だった。当然好きなわけが無い自分とは全然話さず、好ましくない上司の事もシカトするため、おじさん職員達から裏でやいのやいの悪口を言われていた。

 気持ちは分からなくもないけど、本当に高嶺の花みたいな人だなぁ・・・と思い、そもそも学生の頃のクラスでも陰キャだった自分は、話せなくても仕方ないよなと思っていた。

 

カザフスタンの女子バレーのサビーナ選手と、多部未華子さんと、新川優愛さんを足して3で割ったような横顔をたまに眺めさせてもらうだけで、自分は充分だと思えた。

 


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 半年ぐらい経った時、既に夕日に菊の花が舞う秋の頃だった。

 自分はもう仕事も覚え、何なら慣れまくっていた。変わってないことと言えば、まだ全然先輩と世間話の1つも出来ていない事ぐらいだ。しかしこの時、仕事に慣れまくり過ぎたが故に、とんでもないミスをしてしまった。  

僕はこれにかなり凹んでしまった。家に帰っても、何もする気が起きなかった。

 スマホにLINEの通知が来る。画面のメッセージの送信者に、先輩の名前が表示されていた。 

 えっ!!?!??とめちゃくちゃ驚き、飛び上がった。先輩の連絡先など聞ける訳もなく、向こうも知らないはずである。

 「心配になっちゃって・・・〇〇に連絡先聞いたんだ〜」

 〇〇とは、先輩と仲の悪い同僚の事だった。先輩は、仲の悪い同僚にまで僕の連絡先を聞いて連絡してくれた。そして励ましてくれた。

 「私だって、こんな失敗したことがあるんだよ」

 と、色んな仕事の失敗を教えてくれた。凛として堂々とした佇まいの、普段の先輩とは思えないようなミスで、少し笑ってしまった。しかも、プライドだって高そうなのに、自分を励ます為にそんな事まで教えてくれるのか・・・と、感動した。

 

 クラスのマドンナみたいな人で、話しかけようなんて今までの僕は思わなかった。諦めていた。

 でも、自分をこんな風に励ましてくれる人に、そんな境遇とか関係ないなと思った。この先輩の事をもっと知って、何と言うか、単純に仲間になりたいと強く感じたのを覚えている。

 

 

 それからは自分からも積極的に話しかけるようになった。そうすると、意外と先輩は自分なんかとも話してくれた。

 最初はぎこちなかったが、段々と向こうから話しかけてくれる事も増え、いつの間にかもう関係なく、友達みたいに喋るようになっていた。先輩は、相変わらず好きじゃない人の事は無視していた。軸のブレない人だな・・・と思いつつも、凛とした先輩らしいなとも思い、僕は気にしなかった。

 

 更に時が経ち、積もった雪がまだ溶けきらない3月末に、僕と先輩で次の新入社員の名札を作ることになった。

 職場にあったテプラを使ったが、2人とも使った事が無かったので使い方がよく分からなかった。 

「どのサイズのテープが一番良いんですかね?」

「この一番小さいので良いんじゃない?デカすぎる名札とか嫌でしょ」

 そして最小サイズのテープをテプラにセットし、名前を印刷した。

 

ピー ガチャ

 

米粒みたいなサイズの名札が誕生した。  

 えぇ!?と声を上げて驚く自分をよそに、先輩は笑い過ぎて腹を抱えて倒れ込んでしまった。

 普段凛とした先輩がこんな笑い方するの!?とそっちにも呆気に取られたが、出来た名札は、何かもう目には見えないくらい極細だった。 

 ちゃんとしたサイズで作り直したものの、この時僕も頭がおかしくなっていたので、所定の向きとは逆さまに名札を作成してしまった。

 この時、もうゲラになってしまっていた先輩はまたしても爆笑し、「もう、ばか!」と言いながら僕の肩をぺちと叩いた。

 上司からも「お前ら、姉弟みたいだな」と笑われた。

 

 話は変わるが、自分の会社は当時、ステップアップとして、3年ほど経つと全く新しい別の仕事に触れる為、異動することになっていた。

 自分も入社してから2年が経とうとする。もう先輩とは仲良くなり過ぎて、何か普通に出かけたりする仲になっていた。

 たまに喧嘩してしまう事もあったが、次の日、大層不機嫌そうな先輩に謝りに行くと、不機嫌な表情のまま手を広げ、差し出し、「エクレアが良いかな〜・・・」とか言ってきた。

 コンビニまで走り、急いで戻ってきて手渡すと「気が利く〜!ありがとね」と上機嫌に、いつも通りになった。

やきもきしたこっちの身にもなってくれと思ったけど、これで許して貰えるならまあいいやとなった。こんな日々が続くなら、結構充実してていいなぁと思ったが、ずっとは続かないと心のどこかで思っていた。先輩の異動の時期は迫っていた。

 

 

 異動する時期は決まって6月の終わり、梅雨が明けたか明けていないかぐらいの時だ。 

 先輩は・・・泣いていた。びえびえと泣いていた。送別会で、「今までシカトしてたのは一体・・・」と引くくらい皆に別れの挨拶をしていた。僕のことは最早放ったらかしだった。

 くそ・・・最後だってのに全然話してくれねぇよ!と思いながら、送別会も終了し、帰りの電車に乗った。

 明日からもう職場に先輩は来ないんだよな・・・と思うと、何だか猛烈に寂しくなった。今更だが、泣きそうなのは僕の方だった。思い出が沢山蘇ってくる。思わず項垂れてしまった。

 

「ねえ」

 

びくっ!として、振り返ると花束を抱えた先輩がいた。

 

「荷物多いから持って欲しいんだけど、力持ちさんに」

 

 先輩はもう泣いておらず、いつの間にかイタズラっぽく微笑んでいた。 気がつくと職場の人間は、もう僕と先輩しか車内にはいなかった。 

 

 先輩の荷物を受け取りながら、この日久しぶりに先輩に話しかけた。

 

「これから・・・違う職場になりますけど、今までみたいに一緒に遊んだりしてくれますか」

「うん」

「嫌な事があったら、飲みに誘ってもいいですか」

「うん」

「LINEとかでウザ絡みしても、いいですか」

「うん、いいよ」

「じゃあ僕とは・・・今までと変わりなく」

「てかこれで終わりみたいな雰囲気出すな」

急に少し声のボリュームが上がったので、またもびくっとしてしまった。

「別に職場を出ても何も変わらないよ。正直もう友達みたいな感じじゃん。それに来年、もし笹が私と同じ職場に来たら、うんと可愛がってあげるし、沢山教えてあげるし、悩みも聞いてあげる!だからこれで終わりじゃないの。」

 先輩が職場を出たら、楽しくて輝かしかった毎日が嘘のように、全部崩れていってしまうと思っていた。

 でもそれは考え過ぎだった。

 更に先の事を考えれば、また先輩と同じ職場の後輩になれるかもしれない(同じ職場じゃない可能性もあったが)。別に今までの関係性が崩れる訳でもないのだ。

「可愛がるって・・・カラオケのリモコンとかで殴るんすか?」

「それは日馬富士だから」

 あんな送別会で泣いてた先輩が、僕の前ではいつも通りだった。人の心は読めないが、自分の前ではそう振舞ってくれる先輩の事が、僕はめちゃくちゃ大好きになっていた。

「先輩、次の職場でも頑張ってくださいね」

握手を求めて片手を差し出すと、先輩は僕の手を両手で包むように握ってきた。

「・・・うん」

 そう言って先輩は、僕から荷物を受け取って振り向きもせずに電車を出ていった。

 僕の右手には、最後に少しだけ力強くぎゅっと握った、先輩の両手の温かさが残っていた。

 

その後、先輩からは「しゃしんくれ」とLINEが来た。

 

 

 

 セミはいつの間にか2匹になっていた。

 神社に来てつい物思いにふけってしまう。あの時は今と同じような、梅雨が明けてんだか明けてないんだかというような、じめっとした風の吹く日だったっけ。

 僕は鈍感で、先輩が職場から居なくなるタイミングでようやく好きになっていたのだ。高嶺の花過ぎて、最初からそのつもりが無さすぎたのだろう。

 セミはいつの間にかまた1匹になった。最初から鳴いていた方なのか、後から来た方かは分からないが、何だか鳴き声が苦しそうで、けたたましい印象を受けた。

 こんなじめっとした風が吹く、先輩が職場から居なくなって、さらに1年後の僕のことも思い出してしまった。 

 

 

「行けないって・・・どういうことですか・・・?」

 

 上司から言われたのは、ステップアップは無いという話であった。先輩のような異動は無いということである。

「そんな・・・同期は皆行けてるのに・・・?」

 上司も残念そうに首を縦に振った。信じられない事だった。当たり前だと思っていた事が奪われた瞬間、将来への不安は心の中でとてつもなく大きくなった。

 ちなみに、僕と先輩はそこそこに相変わらずだった。異動は無かったという連絡をすると、彼女も驚き、言葉を尽くして励まし慰めてくれた。元々「同じ職場に来てね!待ってるから!」と言ってくれていた人だ。そんな人への報告がこんな残念な物になるなんて・・・と悔しかった。

 それからの僕は、追い討ちをかけるように3ヶ月毎に同じ仕事の別部署に異動させられ、新しい環境に身を置いた。やる仕事は大体同じでも、新しい環境に順応するのは極めてストレスのかかることであった。

 他にも語り尽くせない程の自分にとって苦しい瞬間が多々あり、恐らくここからの一年で自分の精神はかなり病んでしまった。

明らかに何かやらかしたレベルの異動のスパンだった為、異動先で「使えなくて捨てられて捨てられて・・・今度はここに来たのか」と言われたりもした。僕は自分に並程度の自信はあった。しかし、ここまでの積み重ねで、自信などは一切無くなり、自分の事が嫌いになり、もう誰かの為にだけ生きようと目標を転換したのだった。

 

 「誰かの為に生きようと思う」

この目標は聞こえだけは良かったのか、周りは手放しで喜んでくれた。新しい目標が出来て良かった!と肯定してくれた。

 しかし1人だけ、肯定してはくれなかった。それは例の先輩だった。

 

 俺も先輩も忙しく、先輩と飲みに行くのはもうめちゃくちゃ久しぶりだ。ていうか冬だ。前に飲みに行ったのなんて、さらに前の時期の長袖着てた頃なので、春だ。凄く久しぶりに先輩に会う為緊張してしまう。

「お待たせ!」

そう言って駅に現れた先輩は、またもや美しくなられていて目ん玉が飛び出た。こんな人に悩みを聞いてもらえるなんて、、この時期では1番幸せな出来事だった。

飲み始めると、結局全然悩みなどは相談することなく、思い出話や「あの人いまどうしてる」話に花が咲いた。先輩と楽しく話せる事が、自分にとっても一番のストレス解消になった。

帰り道でようやく、先輩の方からその話題を振ってきた。

「これから、仕事はどうするの?」

それは将来にとてつもない不安を抱えていた、当時の僕が一番相談したい内容だった。よりによってこんな帰り道で・・・と思ったが、どっちにしろカッコ悪いとこを見せたくなかったので、話さないつもりでいた。

でも聞かれたからには目標を伝えようと思った。

「職場にいる後輩や同僚の為、せめて誰かの為になれるように、これから頑張りますよ」

「そんなのダメだよ」

「えっ!!?」

 即答された返事に思わず驚愕してしまった。てっきり「それはいい事だね!」と喜ばれると思っていたからだ。

 

先輩は首を横に振りながら、こう続けた。

「誰かの為に頑張るにはね、まず自分が大丈夫じゃなきゃいけないんだよ。だから今は自分の為に頑張ってみて!とにかく、今は自分を大事にして。」

先輩の言う事はごもっともだった。今でもそう思う。

しかし、この時の僕は、もう既に自分の為に充分頑張って、力の無さを痛感した後だった。

「いえ.......もう自分の為になんて頑張れません。考えられないです」

そう反論した。思わず僕は、目を逸らした。

先輩は「そう・・・」とだけ言って、俯いた。

ため息よりも小さい「無理しないでね」という声が、冬の寒空の中に吸い込まれていった。

 

 

 それからの僕は、あんな風に反論をした癖に、事ある毎に先輩の言葉を思い出すようになっていた。

 

後輩に「僕がやっておくから大丈夫」と言った時。

上司に「自分のことは全く気にしなくて大丈夫です」と言った時。

 

先輩の「誰かの為に頑張るには、自分が大丈夫じゃなきゃいけない」という言葉が、心に響き続けた。

まるで、風が吹いた時に鳴る風鈴のようだった。

それはお寺の鐘のような、強く打ち付けるようなインパクトのある言葉では無かった。

 ただ、心の中でよくないとは思いながら、自分で自分を追い込んでいたあの時、何度も、何度も、その言葉が風鈴のように響いた。

 

 仕事をしている最中、新しい職場で先輩と同じような仕事をするようになった同期の姿が見える。新しい事に挑戦する同期の姿が、何だかとてもキラキラしているように見えた。

自分はあんな風にはなれないな、とため息をつくと、またあの言葉が風鈴のように響いた。仕事をするデスクの上に涙が落ちそうになる。遠のく先輩や同期の背中を感じる度に、僕の心は不安でぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

「おい、お前が今いるところってスキー場あるよな?スノボやろうぜ」

会社の同期から急に連絡が来た。

もうステップアップして新しい職場に行った同期だ。今は全然違う仕事をしている。

自分はというと、雪深い県内の最果てみたいなところに異動になっていた。巡り巡って全部が悪い方向に行っている感じしかしなかった。

というか、今同期が働いてる所の近くにもスキー場などあるはずである。わざわざ辺境に来る必要は無い。

「そっちにスキー場あるじゃん?僕が行くよ」
「お前がいなきゃ行かねーような所だろうが!だから俺達が行くぞ!!」

理由になっていないが、押し切られた。3人して現れた同期達は、もう来るだけで完全に疲れていた。辺境に無理して来ようとするからである。

「スノボやったこと無いんだけど。あるのか?」
「1回だけな」

スノボ経験者2人×ほぼ未経験者2人でスキー場に来た。

経験者2人が、丁寧に"木の葉"のやり方から教えてくれた。

久しぶりに友達と遊んだ気がした。辺境にまで来て、自分は完全に塞ぎ込んで、勝手に病んでいただけだったのかもしれない。

 

「正直言うと、寂しくしてっかなと思って来たんだ。こんな遠いとこに帰ろうとする道中なんて、めちゃくちゃ憂鬱だろ?だから最初っからここで集まった」

別に俺なんかに気使わなくたって・・・と言ったが「どうしようも無い奴らだけど、お前の同期だぜ」と返ってきた。

友達だからだろうか。その言葉だけで大切にされていると感じた。

その他にも「お前はとにかく幸せになれ・・・」と抽象的に沢山励まされた。もう分かったから!と突っぱねたが、本当は凄く心に染みた。

まだ暖房の効いてない朝にコーンスープを飲んだ時のように、雪山でも不思議とじんわり暖かかった。

 


半年ほど過ぎ、梅雨の時期がまた訪れた。
先輩の言葉が風鈴のように、心の中でずっと響き続けていた僕は、流石にステップアップから目を背けることは出来なかった。

これは誰かの為なんかじゃなく、嫌いな、本当に大嫌いな自分の為のことだった。

でもこのまま何も頑張ろうとしなければ、前に進もうとしなければ、これからも自分を好きになる事は無いだろうと思った。上司との面接でステップアップを希望した僕は、嘘のようにあっさりと希望が通った。

え?????これまでの一年は???????

悩みまくった末のあっさり感だった。

ステップアップと言っても、遅刻とか悪い事をした同期以外は皆普通に異動していたので、まあ別に普通なのである。僕が異常だった。

後で聞いた事だが、目の病気がある為、色々と相談が必要だったらしい。言えよ。そんなんで一年も待たせるんかい。

という感じで、自分の会社のおかしさを改めて思い知らされただけだった。絶対転職したいところだ。

 

それはともかく、お世話になった人達に、一応異動が決まったと報告した。

そんなに?と思うくらい、色んな人が喜んでくれた、同期も後輩も上司も、中には泣いてくれた上司までいた。

「本当に良かったねえ」と言いながら電話口で泣かれた時は、別に特別な事じゃないですよ・・・とたしなめつつも、自分までもらい泣きしそうになってしまった。

報告を続けていく度、感謝の気持ちは強くなっていく。

そうだ、先輩にも報告しなきゃ!さすがに泣きはしないだろうけど、きっと喜んでくれるはずだ。ようやく良い報告が出来ると、堪らなく嬉しかった。


先輩は、この会社を辞めていた。 

 

僕はそれを他の人に報告する最中に、噂程度に聞いただけだった。

きっと、何よりも自分の為に新たなスタートを切ったのだろう。

こうして僕は、既に憧れの人がいない職場に異動することになった。

 


「一期一会」という言葉があるが、これは茶道に由来する日本固有のことわざだ。人との出会いは一生に一度、その出会いによって自分の人生は大きく変わるかもしれない。

励ましてくれた同期達も、泣いてくれた上司も、そして先輩も、色々な一期一会があって、その価値観を深めて来たはずだ。

僕も色んな人達との出会いが自分の価値観を深めたし、また他の誰かの価値観が深まった理由が、自分との出会いがキッカケであったならば、こんなに嬉しいことはないと思っている。

たまに、誰かの口から自分の心にいつまでも響き続ける言葉を聞く事が誰でもあると思う。

それはきっと、本を何十冊何百冊読んでも見つけられない、その時の自分にとって適切な言葉であるに違いない。

そして、本当の自分に気づかせてくれるのは、その時、自分を本気で想ってくれている人だけだ。

 


神社に座り込んで物思いにふけるなど、完全に不審者のそれであった。

先輩とは、もう連絡を取っていない。一期一会とは案外そういうものだろう。というかよくよく考えたら、半年以上も連絡がまちまちであれば、疎遠になるのは当たり前の話だった。

一年自分の異動が遅れなかったら、もっと沢山連絡して誘っていれば・・・そんなのは全てたらればの話だ。

もしかしたら、同じ職場になってさらに仲良くなったかもしれないし、仲が悪くなったかもしれないのだから。

ただし、実在した過去は、良くも悪くも変わることは無い。

僕は最初、先輩が「自分の好きな人以外とは話したくない」と言っていた時、えぇ・・・と思ってちょっと引いたし、読んだ人もえぇ・・・と思った人は多いのではと思う。

けれどもそんな言葉も、"その人らしさ"が出ていて、今では結構好きだったりする。

テプラで米粒みたいな名札を作った時、電車で別れ際いつも通りだった時、帰り道ため息よりも小さな声を聞いた時・・・その全ての瞬間が、何だかよりキラキラしたものに感じられる、そんな言葉だと僕は思っている。

 

いつの間にか、セミの鳴き声はしなくなっていた。

セミも、自分の為に新たな場所へ飛び立ったことを祈るばかりである。夏はまだこれからなのだから。

そういえば、神社に来て何も願ったり祈ったりせずに居るのもまたおかしな話である。

せっかくだから何か一つ願い事でもしておこう。

結局のところ、自分のことは自分で何とかすればいいのだ。自分の周りの人の事は、自分の力じゃどうしようも無い場合がほとんどである。

自分の事よりも、自分の周りの人について願っておこう。

そう思い、お賽銭箱に10円を投げる。

2礼2拍手をし、願いを込めた。

 

「僕の周りの人達が、どうかこれからも健康で幸せに生きられますように」

 

風なんか吹いていないのに、また風鈴の音が聞こえた気がした。